一般社団法人 東京農工大学同窓会

2023.7.12 かがやく同窓生

北海道の豊かな大地でワイン作り ①

令和3年7月27日、北海道・北東北の縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことは、記憶に新しい出来事です。この遺跡群は、豊かな自然の恵みを受けながら、1万年以上にわたり採集・漁労・狩猟により定住した縄文時代の人々の生活と精神文化を今に伝える貴重な文化遺産です。

縄文時代(約15,000年前~約2,400年前)に北海道と北東北と相互に海を渡ったり、栗の栽培をしたりしていたそうなので、高度の文化を保有していたと思われます。縄文時代は比較的温暖(当時は、海面が今より10mほど高かった)で、北の大地もそれほど寒くはなかったようです。

北海道余市は、遺跡こそ登録されていませんが、この文化圏にあり縄文人が定住して生活して豊かな恵みを受けていた場所で、現在でも引き続いて有機質が蓄積され肥沃な土地が広がっています。そんな豊かな土地の中でも、とてつもなく肥沃な場所があります。

その場所は、余市町の中でも数少ない南斜面の美しい丘陵地で、60cmの団粒構造をもつ腐植土の層と、その下は水はけのよい砂岩層で構成されています。土がふかふかで、根圏も1m20cmくらいになるようなところです。それが今回取材させていただいた、農業生産法人平川ファーム (北海道余市郡余市町沢町202番地)です。

平川ファームのブドウから高品質のワインを手がけるのは、株式会社平川ワイナリー代表取締役の平川敦雄さん(生産H11)です。取材させていただいたのは、令和4年8月も下旬で、やがてブドウの収穫が始まる頃でした。平川さんとお話したのは、4時間ほどでしたが、その経歴にビックリするとともに、土地やワインに対する熱い思いや農工大に対する気持ちに感動を覚えました。

平川敦雄さん

その感動を1回では表現することができないので、2回に分けて報告させていただきます。

Ⅰ.シベリア鉄道でヨーロッパへ

生まれは?

平川 

私は東京都八王子市で生まれ、高尾山の蛇滝歩道の入口がある裏高尾町に家がありました。東京都の中でも豊かな自然が残された場所で、毎日、高尾山に登ったり、浅川上流の渓流で泳いだり、庭の土をひたすらに掘ったりと、自然と触れ合って育ちました。

祖父母は愛知県で酪農を営む農家でしたが、親はサラリーマンで転勤族だったので、私自身は、小学生で4回転校しました。小学校時代は愛知県、三重県で育ちました。特に小3で住んでいた津では、毎日が豊かな自然の中で楽しかった思い出ばかりです。風土への思いや感受性が養われたのもこの頃です。

農工大志望の理由は?

平川

幼少期から自然に恵まれた環境で生活し、農業の場が近くにあり、自然科学が好きで育ったので、高校時代は、農学を専門としたいと思ってひたすらに勉強しました。

生まれた武蔵野の土地に戻りたい気持ちがありましたが、何よりも授業料が安い国立大学で、農学の名門校であるという理由から農工大を目指しました。大学受験では他の私立大学は一切受けず、現役で農工大一本でした。
       
現在の農学部本館

ワインとの出会いは?

平川

大学時代は、学費を自分自身で稼いで生きてゆかねばならない境遇にありましたので、1991年に入学してすぐに最初に渋谷のレストランで面接を受けて、ウエイターとして働き始めました。

飲食サービス業は私にとても合っていて、掛け持ちで派遣の会社に登録して、土日や休日は都心部、または関東甲信越あちこちのホテルで働くようになりました。

派遣先のホテルの中に高級フランスワインを取り扱う料理店があり、プロのサービスの方々や、伝統産地である銘醸ワインの数々と出会って、ワインの世界に強烈に興味を持ちました。

フランス産ワインは産地個性が豊かで、大変においしく感じると同時に、料理との相性が奥深く、サービス業の舞台で自分の感覚を磨いてワインを専門に生きてゆこうと決心しました。フランスに渡って、ソムリエとして働きたいと思ったのが19歳の時です。

学業とアルバイトの両立は大変だったのでは?

平川

大学在籍中は生活のために、毎日がむしゃらに働き、一生懸命勉強しました。入学と同時に、当時は4人部屋であった欅寮に入寮し、大学では授業料免除も受けることができたので、自分には何でもできるという気持ちをもって学生生活を送りました。

農工大の授業でも、レストランの場でも、極めてゆきたいというテーマがあったのが喜びでした。

これからの自分自身のために専門知識を習得し、技術を高め、資格を取って自己形成を目指すという一心でした。ホテルは派遣で約400の職場で働き、どこの名門ホテルに派遣されても即戦力で対応できるように、サービス業の技量を高めてゆきました。

フランスに渡ったんですよね・・・

平川

1994年4年生の時に大学を休学しました。そして恵比寿ガーデンプレイスのウエスティンホテル東京のメインダイニングのオープニングスタッフとして採用され、また同時に掛け持ちで六本木の婚礼場兼レストランで早朝から深夜まで働いて、1年間で330万円の貯金をつくり、1995年8月に単身でフランスに渡りました。

フランスへはどうやって?

平川

新潟港からロシアの船でウラジオストックに渡り、そこからシベリア鉄道に乗ってユーラシア大陸を鉄道で横断し、地面を這ってヨーロッパを目指しました。22歳の時でした。

飛行機で行くのは誰にでもできることでしたので、私は昔の人が渡航したようにロシア、ベラルーシ、ポーランド、ドイツ経由のルートで、日本とフランスの間に広がっている風景を目に焼き付け、若い時にしかできない見聞を広めたいと考えたのです。

遠回りをしたことで得られる価値を大切にしたいと思っています。

怖くはなかったですか?

平川

もともと日本国内もあちこち、寝袋一つで回り、海辺や駅や公園で寝たりしていたので、怖いという気持ちはありませんでした。日本でも海外でも、段ボールの中や電話ボックスで夜を明かしたことも、また、電気、ガス、水道のないテントで、焚火でご飯を作って数か月過ごしたこともありました。

今の時代から考えると、相当無茶なことかもしれませんが、当時の私は身分相応に生き抜く覚悟しかありませんでした。またかつての飛行機代が高い時代には、日本から様々なルートでヨーロッパに渡った人がたくさんいました。

今は陸路での国境越えが難しい時代になってきていますので、行ける時に、シベリア経由でフランスを目指せてよかったと思います。

言葉の障壁は?

平川

最初は、フランス語が分からないで渡仏しましたので、1995年に入国して1年間はコミュニケーションが取れず悲惨な状況でしたし、フランスにいたくないと思ったこともありました。

そんな時は、ドイツ、チェコ、ハンガリー、イタリア、ギリシャ…他の国々のブドウ畑を回っていました。寝袋一つで歩き、疲れたらそこで寝るという生活をしていました。

その時はひたすら畑の風景を見るだけでしたが、ブドウと土地や、そこで得られる光や風を感じて、それら自然の風景とワインの味を結びつけることができました。

最初のフランスの滞在では何を学びましたか?

平川

パリは大都会過ぎて好きではなかったので、フランスの地方にあるレストランで働きたいと思っていましたが、言葉ができずサービスマンとして働くのは無理でした。

一方で、当時はまだ、ブドウ栽培と醸造の現場で働くことは可能でしたので、2年目からブルゴーニュ、アルザス、ボルドーの名ワイナリーの生産現場でワインをつくることを体得しました。

1年目に100通手紙を書いても断られていましたが、現地の方々との出会いで、徐々にワインづくりの現場で働く道が生まれてゆきました。運よく、銘醸ワインを生み出す生産者のもとで働くことができ、会話能力についてもブドウづくり、ワインづくりを通じて習得して、農業、並びにワイン生産業務が困らないレベルまで達しました。

その後日本に戻ったんですよね・・・

平川

もともとしっかり勉強して大学は卒業しようと考えていましたが、フランス滞在3年目に現地で生活資金が尽きたので、1998年、25歳で帰国しました。

帰国後もお金がない状態でしたので、岐阜県飛騨地方のホテルで3か月働いてから上京しました。

ところが、東京とフランスの田舎での生活との差に逆カルチャーショックを受けて、絶望のどん底に落ちてしまいました。

フランス滞在3年間での日本の時代変化が激しく、通信社会の物凄い進化のスピードについてゆくことができなくなっていました。「日本にいたくない」「もう一度フランスの地方に渡って頑張ろう」と考えるようになりました。

戻ってきてからの大学での生活は?

平川

農工大に戻ってきてからの1年間は、生活資金がないという現実の中で、住む場所がない状況でした。

友達の所に居候したりして、住所不定の状態が続いていましたが、この先は自分自身の力のみが勝負だと考えるようになり、大学ではひたすら講義を受講していました。

また、講義では頼りにできる同級生の存在がなかったので、孤独を愛するようになりました。フランスで進学して優秀な成績表を教育機関に出せるように、農工大の学部8年目の単位はすべてAで取る覚悟で挑みました。

そんな自分を精神的に支えてくれたのは、淵野先生と植物研究会と大國魂神社でした。

淵野先生からは「机用意したから、良かったら使って」と仰ってくださって、貴重な勉強スペースを授かりました。

植物研究会は8年生の私を快く受け入れてくれて、勉強が疲れた時に、夜だけ出没していました。深夜にサークル棟に行っても誰かがいたので、その時の皆さんにはたいへんに親しくしてもらいました。

大國魂神社には毎日夕方にお参りして境内を一周していました。神社内には、お酒の神様が祀ってあって、地下から湧き出ている神水を毎日一口含み、神殿の前で「私はフランスに戻って、ワインづくりのために進学したい」と唱えていました。大國魂神社の存在が無かったら、今の自分はなかったと思います。   

大國魂神社

その後またフランスに行ったんですよね・・・

平川

私の頭の中は理系だと思っているのですが、農業思想の本を読むのが好きで、また文章執筆が大好きで、学部最後の年はひたすら勉強して、論文や学術的文章を書いていました。

地力と風土論についての卒論を書いて、1999年に206単位を取得して卒業しました。その時は前人未到の取得単位だと言われました。

更に、卒業直後に、文部科学省(当時は科学技術庁)認定の技術士一次試験(農業部門)を受験して、合格しました。

一方で、その当時の日本のワイン界で唯一、技術士の資格を有している重鎮の先生に、今後のご指導を賜りたくて直接お電話したところ、「フランスにいたって言ったって、収穫なんか誰にでもできる。エノログ(ワイン醸造士)でやっていこうなんて甘い。人生考え直せ。」と言われ、日本のワイン界に対しても、日本に自分の身を置くことに対しても失望を感じました。

やっとのことで大学を卒業できた私にとっては、社会人の大先輩でもあり同じ同窓生でもある先生からの非常に重い一撃でした。そして、もう日本には戻ってこない覚悟で、僅かな手持ち資金で再渡仏に踏みきりました。

そして、日本から遠く離れ、日本人に会わないであろうと思う場所で「人生を考え直す」つもりでした。南フランスの野生の森の中にあるワイナリーで採用され、栽培者として過ごすことになりました。

その時、農工大をどのように思いましたか?

平川

今でも農工大在籍時に過ごした時間は、自分の自己形成の上でかけがえのない時間であったと思っています。

私は農工大しかないという意思で入学し、がむしゃらに働き、ワインに出会い、人生のテーマを見つけ、専門性を高め、言葉を習得して、世界を目指した8年間でした。

今でも農工大学出身ということが、自分を形成する上でかけがえのないことだと思っています。

次回は、その後のフランスでの体験と帰国後余市でのワイン作りを始めるまでのお話のご紹介です。

こうほう支援室 池谷記