鳥取県の智頭(ちづ)町で野生の菌だけで発酵させるパンとビール作りをしている同窓生がいるということで、調べてみました。
その方は、渡邉(傍島)麻里子さん(地生H13)です。渡邉さんはご夫婦で、2008年に千葉県にて野生の菌のみで作るパン屋「タルマーリー」を開業しました。そこで発酵には自然栽培(無肥料無農薬)の素材がベストであることを確認します。
渡邉麻里子さん
東日本大震災後、よりよい発酵環境を求めて岡山県へ移転し、更に2015年に智頭町に移転。「地域の野生菌×天然水×自然栽培原料」での発酵を軸に、パン・ビール・カフェ・ホテルと多角的に、地域に根ざした事業展開をしています。
今回は、2023年3月中旬に智頭町にお邪魔して取材をさせて頂きました。途中姫路から智頭までは初めて智頭急行に乗りましたが、車窓に写る家並みを見てその豊かさに感動しました。家構えも含めて多くの建築が歴史を感じさせるものでした。智頭町は古くから林業で栄えた町で、素敵な街並みが残っていました。
お生まれは?
渡邉
東京都の世田谷区池尻です。
農工大を選んだ理由は?
渡邉
子どもの頃から地球環境問題に関心があり、勉強してみたいと思っていました。その当時、農工大に地域生態システム学科ができて、自分の興味に一番近いと感じました。国立で実家から通えるところも魅力でした。
大学ではどんな研究をなさいましたか?
渡邉
朝岡幸彦先生の環境教育学研究室に所属して、社会学的な視点から環境問題に取り組みました。
今は智頭で農業と密接につながっている仕事をしていますが・・・
渡邉
当時の農工大は地方から来ている学生が多く、私が「将来は田舎暮らしがしたい」と言うと、みんなに「田舎の地域社会は大変だから、都会生まれの憧れだけでは難しいよ」と言われました。
確かに自分は現場を何も知らないと思いました。知らないままでは悔しいと思い、学生のうちからなるべく国内外の農村へ研修に行くようにしていました。それが現在の事業の出発点ですね。まさに今、地方で事業を継続していく中で、都会とはまったく違う地域社会とのかかわりは一番難しい課題です。
卒論のテーマは?
渡邉
田舎で農的暮らしがしたいと言っても、東京生まれで何の繋がりもない中で、将来どうやって農村と関わっていけるのかと悩んでいました。それを他大学のある教授にお話したら、「多摩にある国立・農業者大学校の女性卒業生を追跡調査してみたら…」という提案をいただきました。
同校は2008年につくばに移転、2011年には廃止されてしまったのですが、当時は多摩に全国から農家の後継者や新規就農希望者の男女が集まっていました。その在学生と卒業生たちにアンケートやインタビュー調査をすることで、女性が就農する選択肢は、農家に嫁ぐ・農業法人に就職する・新規就農する、という3つがあると整理できました。
特に、東北や関東の卒業生たちの農業現場に足を運び、インタビューする中で気づいたのは、女性は男性に比べて末端の消費者がどのように農産物を使うか…というところまでイメージできていることでした。農作業に加えて料理など家事労働のほとんどを女性たちが担う中で、だからこそ農産物をただ農協へ出荷するだけでなく、女性には新しい販売ルートを作っていける可能性を感じました。そして根強い家父長制の中で「嫁」という立場がとても弱いという現実も目の当たりにしました。
最終的に卒論のテ―マは「若い女性が生き生きできるこれからの農業・農村の可能性」と名付けました。結論的に「農家は男性より女性が継いだ方が良いのではないか」と考えました。
ご自身が就農するという方向性は考えましたか?
渡邉
どうしても農業がやりたいとは思いませんでした。最終的に、自分は食を中心に地域内循環を作る仕事、農産加工がやりたいのだとわかりました。
大学時代研究活動の他に何か活動していましたか?
渡邉
農業サークル「耕地の会」に入りました。東京・小平市の農家に畑を借りて、週末に農作業をするのが基本的な活動でした。新入生歓迎会では畑で栽培した小麦を使ってうどんを打つのが慣習でしたね。また、夏休みには先輩卒業生が新規就農した新潟県で合宿があり、私はそこで初めて農業研修を経験できました。
学園祭の出店で、先輩は市場で買ってきた冷凍の焼き鳥を焼いて売っていたのですが、私はせっかくなら「耕地の会」の畑で採れた農産物から何かを作りたいと思いました。そこで毎年栽培するさつま芋と小麦で作れる「芋きんつば」を提案しました。
「耕地の会」の「芋きんつば」は今でも継承されていますよね。かつての学生たちの企画力はすごいと感じていましたが・・・
渡邉
「耕地の会」ではみんなでお酒ばかり飲んでいましたが、それぞれが割とのびのびと様々な活動をしていたかもしれません。まあでも「芋きんつば」ひとつでも新しいことをやろうとすると、調整がいろいろ大変でした。それでも自分の企画をやり遂げた経験は今の事業にも活きていると思います。
今、多くの若者が強い同調圧力の中で苦しんでいますが、タルマーリーのインターンやスタッフには、自分で自由に企画する力をつけてほしいと思っています。今ここにある環境や資源を最大限に活かして、けっこう面白いことができると思うんですよね。
新潟での活動を少しお話頂けますか?
渡邉
私が研修させてもらった農家は、米と長ネギを生産していました。何日か住み込んで、主に長ネギの出荷作業を手伝いました。スーパーで綺麗に並んでいる長ネギしか知らなかったので、土のついた外皮を風で飛ばす機械があることにまず驚きました。
ねぎの強いにおいの中で、外皮を飛ばし、長さや太さを揃えて結束し、箱におさめて出荷する…という過程を自分が全く知らず、考えたこともなかった。畑から抜けばそのまま食べられるけれど、都市生活者のために手間と時間のかかる出荷作業があり、しかも規格外は廃棄になることを知って、本当にショックでした。
卒業後、農産物流通の会社に就職なさっていますよね。そこでご主人との出会いがあったと聞きますが・・・
渡邉
小さな会社で同期入社は私と夫の二人だけでした。会社では流通現場の問題を目の当たりにしました。東京という大消費地に大量の農産物を運んで消費者に届ける過程で起こる食品ロスや情報提供の在り方など、疑問を感じることもありました。
その後千葉県でパン作りを始めますが、経緯をお話しいただけますか?タルマーリーに込める意味は?
渡邉
夫婦で同じ夢を共有し、田舎で食品加工を生業にしたいと思ったのですが、そのためには技術を身につける必要がありました。そのときに夫がたまたまパンという発酵食品を選んだのです。私は理念を実現できれば手段は何でも良いと思っていました。結局、東京で約5年修業した後、千葉県いすみ市でパン屋を起業しました。
パン作りを始めていかがでしたか?
渡邉
パン作りは朝早く重労働で、食品加工の中でも最も大変な仕事ではないでしょうか…知らないからできたと思います(笑)。今はスタッフにまかせていますが、夫がパン職人だったときは、夜中3時くらいから作業を始めるため、毎日緊張感があって大変でした。
千葉県で「発酵には自然栽培の素材がベスト」という事を確認したようですが・・・
渡邉
一般的には市販の純粋培養菌(イースト)を使ってパンを作りますが、私たちは野生の菌だけで作るという伝統的製法をポリシーとしてきました。
純粋培養菌を使えばうまく発酵するのに、野生の菌では腐ってしまう…という現象に何度もぶち当たり、試行錯誤の中でわかったのが、自然栽培(無肥料無農薬)の素材を使うと一番良い発酵をするということでした。
野生の菌を使い自然栽培の素材を使ったパン
千葉県から岡山県・鳥取県と拠点を移した理由は?
渡邉
野生の菌による発酵を良くする条件は、材料の質だけでなく、地域の自然環境全てを整えることだと気づきました。水と空気の綺麗なより良い環境を求めていった結果、移転を繰りかえし、最終的に鳥取県の智頭町にやってきました。
来る途中に中国地方は豊かだなと感じました。家が大きくて、黒い瓦屋根で統一されていて周りの景色と調和していて、歴史を感じました。
渡邉
馴染みのある東日本から未知なる西日本に移るときは不安でしたが、住んでみると私も同じように感じました。
東日本ではすべてのベクトルが東京へ向いていて、東京中心の経済圏でしか生きていけないと思い込んでいました。でも中国地方に来てみると、歴史が深く、それぞれの地域での小さな経済圏が存在すること知り、むしろとても豊かだと感じました。出雲大社があるように山陰は日本発祥の地ともいえ、江戸よりも随分前から文化や経済が発達していたんですよね。
現在は、中国地方とくに鳥取・島根は新幹線が通っておらず、人口流出により農家の担い手がいないという現実もありますが・・・
渡邉
開発が進んでいないからこそ、豊かな自然が残っているといえます。
発酵の観点からみると、自然が豊かで水と空気の綺麗な場所でこそ、良いパンやビールが作れるんです。地域資源を活かしてここでしかできないモノづくりがある…というのは、これから何よりの財産になっていくと思います。
前に流れている川が綺麗で、杉の木も手入れされていて綺麗ですね・・・
渡邉
智頭町は、鳥取砂丘へ繋がる千代川の源流です。山陽に比べ山陰の川はきれいなので岡山県からわざわざここまで来て渓流釣りをする人もいます。
また智頭町は吉野・北山に並ぶ歴史ある林業地で、美しい智頭杉はブランド力があります。
地域の自然栽培の小麦を使うためロール製粉機を導入していますが・・・
渡邉
もともと農産加工がしたかったので、パンを作るなら地域で生産された小麦を使いたいと思いました。そのためにもロール製粉機を導入することは念願だったのですが、智頭町でやっと高さ6メートルある大がかりな機械を設置できる物件に巡り合えました。
地域で生産された小麦で作ったピザ・・・カフェで提供・・・
自然栽培の小麦は確保できていますか?
渡邉
2015年に智頭町に移転して8年が経ち、ようやく小麦や大麦の自然栽培を契約することができ、今年から仕入れることができそうです。
ビールの醸造もしていますよね…
渡邉
パンもビールも麦を発酵させた兄弟のような関係です。野生の菌だけで美味しいビールを作りたかっただけでなく、ビールの澱をパン用酵母として利用したかったのも、ビール醸造を始めた理由です。
オーガニックの麦芽とホップを材料に野生の菌で醸造し、半年~2年熟成させるというのがうちのビールの特徴です。ワインと同じように、高品質な材料と自然発酵でつくったビールは、熟成によっておいしくなることがわかりました。
野生の菌だけで作った美味しいビール
若い方々が働いていますが・・・
渡邉
現在20~30代の正規スタッフを5名雇用しています。また大学生を中心に毎月1~3名のインターン受け入れています。私たち職人は体力だけでなく観察力などを含めた高い技術と身体性が求められるので、若い頃から現場で育ってもらえたらと思っています。
そして、過疎化の進むこの町を活性化するためにも、多くの若い人たちに関わってもらいたいという想いも強いです。
ご主人は本を出されていますが・・・
渡邉
夫の著書『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』は国内でも思いのほか反響がありましたが、韓国でベストセラーになりました。それから韓国で講演を重ねるうちに交流が生まれ、友人がたくさんできました。それまで私たちは日本が韓国を植民地化した歴史についてまったくの無知で、とても恥ずかしく思います。
メディアでは「反日」という言葉を多く目にしますが、実際に韓国の人々との交流で私たちがそのような印象を受けたことはありません。
私の娘は高校生ですが、初めはK-POPファンとして韓国に興味を持ち、それからハングルを学び、今は韓国の大学への進学を目指しています。彼女は自分が田舎で移住者というマイノリティーの立場で育った経験から、日韓や在日朝鮮人の歴史を自分ごととして勉強しており、大学では文化人類学を学びたいそうです。
私も大学時代に休学して半年ほど、アメリカやニュージーランドでファームステイをしました。海外の人たちとの交流はとても刺激的で、視野がぐんと広がって人生がとても豊かになります。
かつてより今の日本は内向き思考が強くなっているのが気になりますが、若いからこそ国際的なチャレンジをしてみることを強くおススメしますね。
タルマ-リーの今後についてお話しいただけますか?
渡邉
私たちが移転してきてから、智頭町では年間100人ずつ人口が減っています。ただパンとビールを作って経営を維持していれば良いわけではなく、この町自体の存続に危機感を覚えるようになりました。
その危機感を共有する他の事業者たちと4年前から連携して、智頭駅から近い中心エリアを「アルベルゴ・ディフーゾ」とする町づくり活動を進めてきました。その一環として、空き家をリノベーションしてカフェと一棟貸しホテルを併設した「タルマーリー智頭店」を昨年オープンし、今はパン工場も同エリアに移転する準備をしています。
このエリアの空き家をひとつひとつリノベーションして宿泊や飲食、販売などの機能を充実し、スタディツアーや映画会、アーティスト・イン・レジデンスなどの文化事業を重ねていくことで交流人口を増やし、若い人が「住みたい」「起業したい」と思えるようなワクワクする町にしていきたいです。
また、ビールも地域で自然栽培された大麦・小麦で生産できるように、麦芽工場を整備していくことが次の大きな目標ですね。
カフェの様子
後輩の在校生に一言お願いできますか?
渡邉
私は大学1年生まで臆病で、一人で海外へ行く勇気など全然ないと思っていたのですが、ある日「“やりたいけどできない”と自分に制限をかけるのをやめて、とにかくやってみよう」と思ったことを機に、行動するようになりました。
私がタルマーリーという冒険を続けているのは、夢や理想を描けるからだと思います。イメージができれば、あとはそこに向かって動くだけです。
そして私が幸運だったのは、素敵な大人との出逢いに恵まれてきたこと、「あの人みたいに素敵な文章を書けるようになりたい」「あの人みたいに社会的意義のある事業を展開していきたい」と思える大人が手の届く範囲にいたから、具体的に良いイメージを描くことができました。
もし身近にいなくても、著名人でも歴史的人物でもいいと思います。とにかく素敵なイメージを思いっきり描ければ、そのために必要な知識や技術を身につけながら、夢に向かってエキサイティングな人生を送っていけますよ。
【編集後記】
先ず東京で育った渡邉さんが、はるか遠い智頭町で事業を展開していることに力強さを感じました。
豊かな自然に恵まれた智頭町で、「地域の野生菌×天然水×自然栽培原料」でパンとビール作りをするという理念を実現した事にも敬意を表します。
そんな智頭町にも過疎化の波は押し寄せています。そんな地域に危機感を感じ、その危機感を共有する他の事業者たちと町づくり活動を進めている姿を見て、エキサイティングな人生を送っている同窓生がいるなと感じました。
こうほう支援室 池谷記