以前、交流ラウンジで現役学生さんの植物研究会活動のご紹介をしました。
植物研究会は歴史が古く、私(こうほう支援室池谷)も50年以上前ですが、植物研究会に入っていました。当時、私の先輩たちは熱心に活動されていて、よく植物観察会に連れて行ってくれました。
その先輩たちが植物研究会OB/OGの会を立ち上げて、今でも植物観察会を開催したり、小冊子を発行したりしています。
その代表は、佐藤元昭(植防S42)・久江(農学S47)さんご夫妻です。学生の頃に一度横浜のお宅にお邪魔したことがありましたが、今は八ヶ岳に移住して、自然豊かな地で地元の自然観察サークルや地域活動に参加するとともに、OB/OGの会の活動拠点を提供したりしています。
佐藤ご夫妻
今回は八ヶ岳のお宅にお邪魔して、お二人の活動のお話を聞かせていただくことができました。
待ち合わせの駅に着くと、車で迎えに来てくださっていて、お宅にお伺いする前に車で地元の様子を紹介していただき、楽しいドライブになりました。
ドライブの途中で見た景色
インタビュー自体は4時間半くらいかかりました。すべてをご紹介できませんが、お二方のご紹介や地元での活動、OB/OGの会の活動を中心にまとめさせていただきました。
Ⅰ:お二人のご紹介
お生まれは何処ですか?
佐藤元昭(以後、元昭)
生まれは大阪です。戦前の生まれですが、終戦と同時に東京に来ていて、昭和22年頃には東京の浜田山にいました。高校は杉並高校でした。当時男女共学の実験校で男女同数の学校でした。
農工大に入学しようと思った理由は?
元昭
高校時代の先生の影響が大きかったと思います。
生物の先生が、雑誌『Nature』に記載されている内容を高校の授業で話していました。昭和30年代初期には二重螺旋について知っていました。先端のことばかり教えてもらっていたわけです。
また、化学の先生からはカラムクロマトグラフィーについても教えてもらいました。ほうれん草をエーテルと一緒に磨砕抽出して、クロロフィルとカロチンとキサントフィルの三層に分かれるという事を既に学んでいました。
杉並高校で全てのことに「どうして」という視点でとらえることを学びました。
植物防疫学科を選んだのは?
元昭
植物防疫学科は出来たばかりの学科で、第一期生でした。
もともと生物・化学というものに興味がありました。それと、あまり裕福ではなかったので、企業に就職しやすい学科を選びました。
学部を卒業する年に、修士課程ができました。教授から誘われて進学しました。有機微量分析という分野の研究をしました。
昭和電工にお勤めになったのですよね・・・
元昭
修士卒業時に、教授から助手になるように誘われましたが、早く収入を得たかったので就職の道を選びました。
農工大時代にガスクロマトグラフィーを使って残留農薬の分析をやっていました。農薬の関係を研究していたので、その延長で昭和電工に就職させてもらいました。
昭和電工にはどれくらい在籍しましたか?
元昭
1969年から2000年くらいまで昭和電工にいました。
昭和電工では中央研究所に配属になったのですが、その後本社で営業開発の部門に勤務を命じられたりして、研究の仕事から離れてしまった時期もあります。
その後、残留農薬の分析をする機械の開発を担当することもありました。
昭和電工は早期退職したようですが・・・
元昭
退職した当時は、中国の野菜が農薬まみれという報道等があって、残留農薬が問題になっている頃でした。
そんな社会情勢もあって、和歌山にある一般財団法人雑賀技術研究所(以下:財団と表記)で、中国の野菜の残量農薬を分析することになりました。残留農薬を分析できる人材が必要でしたので、私にお声がかかりました。
「残留農薬の分析をやらせて頂けるのならば」という事で、お引き受けして昭和電工を一年早く退職しました。
財団ではどのようなことをしましたか?
元昭
財団は、みかんの糖度を測る光センサー装置を開発したところです。コンベアーにみかんを流して赤外線を照射して、糖度・熟度・大きさ・色合い等を選別するシステムです。
着任した当時、いろいろな残留農薬の分析は、それぞれの農薬成分について行わなければならず、中国からの輸入野菜の分析に多大な時間を要していました。
輸入した野菜をそんなに長く保管することは出来ません。そこで、試行錯誤して研究を重ねて多成分を一度に分析できる方法を確立しました。それが「多成分一斉分析法」です。
とても大きな成果ですね・・・
元昭
特許を取るべきという意見がありましたが、より早くこの技術を広めることが必要であると考えて、その成果を各地で発表しました。
中国各地で講演を行ったところ、中国で出荷前検査ができるようになりました。そんなこともあり中国の色々な大学の客員教授の称号を頂きました。
今では、200成分以上が1日くらいで分析出来る様になっています。分析手法もガスクロマトグラフや液クロマトグラフやら、LC・MSやGC・MSという等量分析計との組み合わせに変わってきています。
財団ではどれくらいの期間研究をしましたか?
元昭
1年だけのつもりでしたが、結局70歳近くまで勤めました。
定年後は山梨に住みたいと思っていましたので、昭和電工を1年早く退職して、ここに家を建てましたが、すぐには住まずに和歌山の財団の方に単身で赴任しました。
佐藤さんのお宅
ここの家は単身赴任中どのようになっていたのですか?
元昭
家を建てる頃、妻の両親の介護が必要になっていました。妻が介護のため、この家で一緒に住んでご両親の介護をすることになりました。
奥様の話が出ましたので、久江さんのお話を聞きたいと思います。久江さんは、生まれは東京でしたっけ?
佐藤久江(以後、久江)
広島です。広島大学に農学部が無いので東京農工大学を受験しました。
岡山大学に農学部がありましたが、下宿しないと通えません。どうせ下宿するのだったら好きなところに行きなさいと親から言われていました。
園芸学研究室に入られましたが、もともと園芸を目指していたのですか?
久江
そうですね。もともと植物は好きでした。
久江さんは、植物研究会では存在感があったと思います。
私が学生の頃、横浜のお宅にお邪魔した時は既にご結婚なさっていましたが、久江さんは何処かに就職しましたか?
久江
卒業して、一週間後に結婚して家庭に入りました。主人が7つ年上だったので、主人が早く結婚しなさいという事で、すぐ結婚しました。
家庭に入って植物との縁は切れませんでしたか?
久江
横浜植木という会社に一旦勤めましたが、妊娠したので冬場の水やりがあったりしたこともあってすぐ辞めました。ガーデンセンターで働いたこともあります。給料は扶養家族の範囲内ですが・・・
実のご両親の介護をなさったそうですね。
久江
主人が単身赴任という事もあり、両親の介護をこの地ですることができました。介護している期間はあまりこの地での活動はできませんでしたが、何とか両親を看取ることができました。
Ⅱ:植物研究会との出会い
植物研究会に入部した理由は?
元昭
もともと植物に興味がありました。浜田山の庭に半地下の温室を作って、サボテンの種からサボテンを育てたりしていました。そんなこともあって、すぐ植物研究会に入りました。私が山登り好きだったこともあり、高山植物を中心に観察する会になってしまいました。
植物研究会で「野草を食べる会」というのを始めたりもしました。いまだに植物愛好会会の仲間が集まったりするとやっています。
久江
私は、植物好きという事もあって、入学式の時に植物研究会から誘われて入りました。毎日のように部室には行っていました
山登りはいつごろからやっていましたか?
元昭
中学時代から登っていました。山の会に入っていて奥多摩を良く歩いていました。顧問の先生が理科の先生で、教育大の林学科を出たばかりの若い方でした。植物、特に樹木に詳しい方でした。先生が好きで、付きまとって山に一緒に行っていました。色々と樹木の特徴を教えてくれました。それで山の植物に興味を持つようになりました。
当時、植物研究会って何人くらいいましたか?
元昭
上級生が3~4人同期も3~4人位で、後輩はたくさんいました。先輩の道案内で観察会があって、道に迷ったことがあります。その時に、山の経験を活かして、地図を読んで皆を導いて下山したことがあります。
それから、山歩きの時は私がリーダーになるようになりました。
久江
そういうことは全く知りませんでした。私が入部したとき夫は大学院の2年生だったので、山登りにはほとんど顔を出していませんでした。良く知らなかったけれど、昼休みには部室に顔を出してくれていましたので、話は良くしていました。
私が大学1年生の頃、尾瀬に行ったことがありますが、自然には生えてこないような「ハコベ」が生えていたり、アヤメ平にアヤメが生えていないような時代でした。人が、自然をむやみに壊してはいけないと思うようになりました。
元昭
タンポポも、セイヨウタンポポは外来種で人間が持ち込んだものです。今、自然観察指導員をしていますが、入笠湿原ではセイヨウタンポポが生えていると、引っこ抜いています。
現役の植物研究会の学生に聞くと、今でも農工大学の学内にカントウタンポポが生えていると言っていました。ちょっとほっとしました。
元昭
この辺では、在来種はシナノタンポポですね。
府中キャンパスに咲くカントウタンポポ
セイヨウタンポポは、四季咲きで、しかも荒れ地に強いので在来種の生息域に侵入してきます。
植物研究会の会長もなさったのですか?
元昭
いえやりませんでした。そういう名前があまり好きではありませんでした。会長批判は好きでしたが・・・そういう肩書よりも山歩きや合宿したりすることに楽しみを見つけていました。神代(かみしろ)の駅(長野県)の裏の民宿で合宿したことがあります。八方尾根や遠見尾根に行ったりしました。青木湖にも行きました。
私は最初に野鳥研究会に入りましたが、植物研究会が学園祭の時に、高山植物のスライドショーをやっていて、あまりにもきれいなので植物研究会にも入りました。
Ⅲ:八ヶ岳山麓での活動
この家に多くの人が集う様になっているようですが・・・
元昭
ここではいつでも宴会ができるようになっています。
久江
いつもは2階で暮らしています。
元昭
こういう環境なので、たまり場には丁度いいのですよ。1階でみんなが騒いでいても、我々は2階に行ってしまえば良いという環境です。隣近所からは離れているので、騒いでいても文句が来ることはありません。夏でしたら、庭で鍋やバーベキューもします。
久江
ここには下手をすると7~8人来たりします。
元昭
高校時代からアルバイトをしていましたので、若いころから色々な経験をしていました。そんなこんなで人付き合いには苦労しませんでしたね。大学院の2年生の頃は、国立に家があって6畳間が私の部屋だったので、植物研究会のメンバーのたまり場になったりしていました。
その頃から今の様に多くの人を受け入れることができていたという事ですね。
元昭
皆が集まってワイワイいうのが好きだったですね。
この部屋(1階)のストーブは久江さんがもらってきたそうですね。
久江
2軒先の方が使わないというのでもらってきました。
元昭
薪ストーブ用に家を改造すると、とてつもなくお金がかかるので、手作りで工夫しながら作りました。突貫工事で作りました。レンガもきちんと組もうとしたけれど、上手くいきませんでした。
久江
セメントも速乾性の物を買ったので、使うとすぐ乾いてしまって大変でした。
ご自分で設置したストーブ
元昭
もらったのが10月下旬だったので、早く作る必要がありました。薪も準備してなくて、下の斜面で枝を拾って使ったので、湿気があって大変でした。ちょっと北風が吹くと、煙突から風が吹き込んで煙が逆流してきたりしました。
今は薪の準備は万全
ストーブ以外にも何かくださったりしますか?
久江
ここにいると、色々とくださるので野菜とか米はほとんど買わずに済みます。大根や白菜を何十個とくれるので、新聞に包んだり、土をかぶせたりして保存しています。
元昭
私の同期で徳島のミカン農家がスダチを毎年贈ってくれます。
久江
多くの方が色々くださるので、お返しにお歳暮としてバラ肉を桜で燻したベーコンやハムを送っています。逆にこれが欲しくて、お歳暮を贈ってくる人がいらっしゃいます。
元昭
普通の豚ロースを使ってベーコンやハムも作っています。作るのに、一週間から10日かかります。燻すまでにいろいろな液(みりん・ワイン・飽和食塩水・ショウガ・ニンニク・香辛料)に漬けて毎晩天地替えして約一週間。ざっと表面を洗い落として夜、風乾して翌日桜の枝で燻します。
敷地がかなり広いですが・・・
久江
山栗の木が5・6本あります。たくさん栗が取れます。小さいので剥くのが大変ですが・・・。クリタケ、ナメコ、ハナイグチなどのキノコを採ってきて、佃煮にしたり鍋に入れたりして楽しんでもいます。食感は売っているものとは全然違います
裏庭で栽培しているナメコ
八ヶ岳山麓で色々と活動なさっていますが・・・どのように広がっていったのですか?
久江
神奈川県にいる頃、子どもたちが小学生の時に、PTAの活動で植物観察会がありました。母親たちに「子供たちが摘んできた植物の名前を教えられたらいいね。」と言われて、20年近く観察会の指導員みたいなことをやっていました。こちらに来た当初は、私は病気の両親と一緒でした。八ヶ岳自然クラブの活動は知っていましたが、両親の病院の送り迎えとかがあって、ちょっと躊躇していました。
ここの土地を売ってくれた不動産屋が面白い人で、移住者だとお友達がいないだろうという事で、そこで不動産を買った人だけのサークルを作ってくれていました。私にも紹介してくれました。「八ヶ岳ふるさと倶楽部」という名前のクラブです。会員は現在300世帯くらいです。
両親が亡くなってから、ふるさと俱楽部のメンバーから「そんなに植物が好きならば入ってよ。」と八ヶ岳自然クラブに誘われました。初めはこちらの植物に慣れていなくて、植物の同定も難しかったりしたので、暫くはおとなしくしていました。
この地域の植物が少し分かるようになって、八ヶ岳自然クラブに入れてもらって観察会に参加するようになりました。
その頃主人も和歌山からこちらに生活の拠点を移すようになって、一緒に生活するようになりました。
ご主人も色々な活動をしているようですが・・・
元昭
野次馬精神が旺盛ですので、色々な活動に首を突っ込んでいます。その不動産屋が北杜市の町作り委員会に私を巻き込み、地域活性化委員になってしまいました。地元の人々と移住者との壁をなくして、地域の活性化を図ろうという委員会です。
地元の人の既得権と移住者の権利が違ったりします。例えば、移住者の生ごみを収集してくれない地域があったりします。市長と会ってそのような理不尽さを訴えたり、活性化について議論したりしています。地元の部落では、部落の中に花壇を作ってベンチを設置して憩いの場所にしようという活動の顧問もしています。
野次馬精神が旺盛という事ですが、他にも何か活動していますか?
元昭
そのほかにも、八ヶ岳自然クラブ、八ヶ岳南麓原生花保存会、入笠ボランティア協会の世話役をやったりしています。お花畑に立ち入っている人が許せなくて、自然保護協会の自然観察指導員の資格を取って腕章をつけて人を指導できるようになりました。
また、俳句の会に4つ入っています。有楽町、地元(梨句会)、山梨の方言を使った俳句の会、ネットだけの俳句会もあります。「週末縄文人会」というのに入って、週末には竪穴式住居を復元・保存等をしています。
Ⅳ:OB/OG会の活動
OB/OG会の発足についてお話を聞かせてください。
元昭
最初「同窓会やるけどどう?」と学年の近い人たちが自然発生的に立ち上がりました。今は、西村さんという人がまとめて連絡をしてくれています。会員から寄せられる植物情報(どこそこに行きましたとか、こんな花が咲きましたとか・・。)をまとめて一斉メールで配信してくれて、それに対する返信も全員に戻ってきます。
久江
ワードで文章を作って写真を添付してメールで送ると、西村さんが編集してくれて、「植物談義集」として不定期に発信してくれます。
植物談義集
OB/OG会は年中やっているのですか?
元昭
不定期でやっています。コロナの前は毎年新宿御苑で観察会をやってライオンで打ち上げをしたりしました。また、松本や八ヶ岳山麓で合宿もしていましたね。コロナで会えなくなりましたが、西村氏のお世話で「植物談義集」の活動は続けていました。コロナも収まってきたので、来年(2024年)は入笠山で観察会をやれないかなと思っています。
久江
コロナの直前に同窓会高知県支部長の寺峰さんのご案内で、高知の牧野植物園に行ったりもしました。
どんなメンバーですか?
久江
主人の世代から、私の2年下の世代までの30人弱くらいです。
私の頃には植物研究会の会誌「ヤブレガサ」がありましたが、佐藤さんの頃からありましたか?
元昭
我々の頃は部室が無くて、マスターになる頃に部室ができて、足を運ぶようになりました。そんな状況でしたが、「ヤブレガサ」はガリ版で作っていました。
久江
私が2年になるときに部室ができました。府中地区の正門入って右側にできました。今は、武道場の前のサークル棟で、野生動物研究会と同居しています。
現在のサークル棟
植物研究会の頃を振り返ると、楽しかったと思います。それと、今までの人生そんなにつらいことはなくて楽しかったです。
元昭
私は、昭和17年生まれです。戦争そのものは覚えていませんが、戦後浜田山から永福町まで焼野原だったことを覚えています。焼け焦げた焼夷弾がいっぱい落ちていて、集めて屑鉄屋に売って家計費の足しにしていたりしました。そういう事がつらいとは思わない時代でしたね。
学生時代論文を書く時に、シュラフで研究室に寝泊まりしていました。いい思い出ですね。職場で同じことをして、上司に怒られましたが・・・。
OB/OG会が50年以上続いていることが素晴らしいと思います。メンバーの活動に、佐藤さんのお家が役立っているわけですね。
元昭
植研のOB/OG会ではまだ宿泊者はいませんが、日程が合えばいつでも利用できます。7~8人は泊まれますので、観察会やOB/OG会の宴会にはうってつけだと思います。
Ⅴ:最後に
若い人たちにメッセージみたいな事はあれば・・・
元昭
好きなことを好きなようにやるのが良いと思います。それが一番幸せだと思います。
私の場合、選択肢を選んだ時に失敗したかなと思うことが多々ありました。結果的には自分の意志で選んできたので、評価は死んだ後で他人が下すものだと思っています。
「自分のやりたいことをやって、自然の中に広い土地を持って、いまだに自然とかかわりあって生きている。」という風に評価してくれる人もいます。
若い人たちには、すべてのことをプラス思考で考えて欲しいと思います。少し上から目線かもしれませんがね・・・
上から目線でものを言っていい年だと思います。70年以上も生きてきて、色々な経験をしていますので、若い人たちに一つの考え方を伝えることはいいことだと思います。
不幸と感じる人は、何をやっても不幸と感じると思います。
元昭
そういう人は、マイナス思考になってしまうんですね。プラス思考になれと言ってもなかなかできませんがね・・・
いい人に巡り合えたと言える人が、豊かな人生を送ってきていると思います。
元昭
巡り合えたというのは確かだけれども、巡り合えたと思える感受性が重要だと思います。
同じ状況にあっても、幸せと感じる感受性と、不幸せと感じる感受性があると思います。
元昭
人格とか個性にしてしまうと他の人が出来なくなってしまいます。発想法を変えればいいわけです。個人個人が努力して発想法を変えれば良いわけです。
常にそう思っていけば、なんとなくそうなっていくと思います。習慣化して行けると思います。
ホテルに勤めたことがありますが、色々と裏切られたりしましたが、裏切られたことは大したことではなくて、そういう人もいるんだなと思っていました。佐藤さんは、やりたいように生きてきて、もちろん今も思うように生きていますね。
元昭
体は老化してきたけれど、口と頭は全然老化していないつもりになっていますが・・・。
この地に、現役学生さんに来てもらって一緒に観察会ができると良いなと思っています。
元昭
人数にもよりますが、事前にご連絡いただければ、ご案内できると思います。
現役の学生さんにその旨伝えます。本日は長時間にわたりご協力いただきありがとうございました。
【編集後記】
取材をさせていただいたのは2023年の11月でした。そしてこの原稿が完成するのが翌年の4月上旬です。
元昭さんからご連絡があり、3月末に現役の学生さん7人が八ヶ岳を訪れて一緒に自然観察会をしたことが分かりました。50年の時を超えて現役学生さんとの交流ができて大変うれしく思います。これからも交流が続くと良いなと思います。
今回の取材を通じて、お二方のたゆまぬ好奇心に感心しました。仕事や家庭の色々な問題を抱えつつも、身の回りのことに興味を示し、多くの方々と交流をされている様子が素晴らしいと思いました。
多くの方々との交流を通じて、素敵な人生を送っていると感じます。これからも、植物研究会OB/OGの会の活動や、地元での活動で頑張っていただきたいと思っています。
こうほう支援室池谷記