一般社団法人 東京農工大学同窓会

2024.8.6 かがやく同窓生

日系ブラジル人として日本で活動する -社会的・文化的な価値観の違いを乗り越えて-

皆さんはブラジルというとどのようなことを思い浮かべますか?「日本の裏側」「アマゾンの自然」「日系移民」等様々なことを思い浮かべるでしょう。

私(こうほう支援室の池谷)は大学事務を定年退職後、農学部国際協力支援室でJICAの草の根事業に携わりました。各国に日本農業の技術を移転させようという取り組みです。

その中にブラジルのアマゾンを対象にしたもの(2011年~2015年)がありました。このプロジェクトを進める中で、農学府国際環境農学専攻に留学してきていたウメムラエリオマコトさん(国際院H23)という日系ブラジル人の学生と出会いました。

エリオさんは、このプロジェクトで現地に行って調整するなど、中心的な存在でした。私も現地に派遣していただいて、エリオさんには色々と教えて頂き、大変お世話になりました。

今回は海外に目を向けて、エリオさんの興味深いお話を紹介したいと思います。

2024年5月中旬、同窓会のこうほう支援室でお話を伺うことができました。

ウメムラ エリオ マコト さん

Ⅰ:日本的な教育

最初にエリオ君に会った時に、こんなに「日本的な人」は今の日本にはいないと思いました。どこで生まれて、どんな生活をしてきたか教えてください。

エリオ
父親は戦後のブラジル移民です。岐阜県が当時貧しかったので、移住政策をとりました。そんなこともあり、戦後祖父が小学生だった父親も含めた兄弟3人を連れてブラジルに渡りました。

当時、サンパウロの近郊のグアラレマ(GUARAREMA)市に、先発の岐阜県出身の移住者が移民地を立ち上げていたので、祖父たちはそこに入植しました。「桜植民地」という移民地で野菜、果樹、養鶏などの農業を始めました。しかし、農薬の乱用問題が世界的に広がって、「桜植民地」でも身体を壊して日本に帰った人もいたそうです。

そんなこともあり、父親は農業はやりたくなかったのでサンパウロに移り、当時は専門家が少なかったカメラ屋を始めました。技術者育成学校に入って日本人の先生からカメラの技術を学んだそうです。

その当時、サンパウロに日本人のコミュニティーがあったのですか?

エリオ
日本人同士の結束は強く、協力し合うという環境にあったそうです。

エリオ君は日本的な教育を受けたのですか?

エリオ
日本で学んだことのほうが多いと思いますが、両親たちの日本の社会の認識は、戦争直後の状況だったと思います。
今は、情報がすぐ手に入る状況ですが、当時は日本の情報がほとんど入らなかったので、認識が戦後の状態で止まっていたと思います。
日本に行くことはなかなか出来なくて、行けたとしても壮行会を開くような時代でした。

今日本にいて感じるのは、早いスピードで社会的環境が変わっているということです。そういう意味では時が止まって閉ざされていたブラジルでは、昭和時代の日本教育を受けていたと思います。

我が家は、最後の方の移民になるわけで、より日本的な影響が強かったと思います。戦前移民の人達の子孫は戦争の影響もあり、現地で教育を受けていて現地化してしまっています。

エリオ君は日本的な教育を受けたので、日本に留学して日本にすぐ馴染めたのかなと思います。

エリオ
10年日本にいても毎日が発見です。
発見が祖父や祖母の思い出に直結することがあります。昔言っていたのはこういう事だったのかと思う事があります。
そういう意味では、日本で発見することがとても楽しくて、宝探しをしているような感覚になります。
他の国の人達と比べて、日本という社会や文化を受け入れやすいという事にもなります。

日本の文化とブラジルの文化の違いってどんなことがあげられますか?

エリオ
日本は長い歴史の中で文化がはぐくまれてきた訳です。ブラジルは1500年ころ発見されましたが、実際の開拓は1800年以降で、その後徐々に移民が進み国として成立します。

若い国で、なおかつ移民の国です。友達もイタリア系、スペイン系などたくさんのルーツを持つ人が多く、また混血も進んでいます。

ブラジルの文化・歴史って何と言われた時に、日本ほど深みが無かったりします。ブラジルの小学校では、歴史の授業は中世ヨーロッパから始まります。それくらいブラジルの歴史は短いです。

日本の歴史は深くて面白いです。祖母が歴史に興味があったので、その影響もあるとは思いますが・・・

日本は歴史が深すぎて負荷になっている側面もあるように思いますが・・・。例えば、天皇制に対する様々な考え方が存在したりします。

エリオ
日本人は歴史を重んじるという姿勢は全ての人が持っていると思います。
歴史の浅い国の人達は、歴史の重みに対する概念が存在しません。歴史学者は挫折する人がいたりします。

遺跡が発見されても、土地の所有権の主張の方が勝ってしまい、発掘への協力が得られません。日本だと遺跡が発見されると、発掘が終わるまでは国が管理して、土地の所有者は協力するように法律が決められています。

ポルトガル人が代々管理した土地でポルトガル人の遺跡が発掘されれば、協力が得られるかも知れませんが、混血が進んでしまうとそういった理解も得られなくなっています。

ブラジルの日系社会で、自分の立ち位置はどのようなものでしたか?

エリオ
戦後移民2世であまり人数的に多くなく、コミュニティーとしても小さかったです。
サンパウロの日系人社会にはなじめませんでした。そこにいる同年代の人達は、戦前移民の人達のお孫さんでした。私にとっては完全にブラジル人と話している感覚になりました。
それでも当人たちは、日本人でそこいら辺のブラジル人とは違うという態度があって、それがとても嫌でした。馬が合いませんでした。

私はオランダ系の移住者の人とは馬が合いました。その人は「私たちのアイデンティティーは、両親の出身国であるオランダ人でもブラジル人でもない。おそらく両国の間のどこかで未だに迷っている人種だよね。」と言われて、そうだなと感じました。

ブラジルで移民の子として生活すると、同じような疑問を抱くことは自然なことだと思います。でも、このオランダ系移住者からの言葉は、その時とても明確でここちよいものでした。

家族とは日本語で、日常はポルトガル語で、頭は混乱したりしなかったですか?

エリオ
自然に出来ていて、違和感を覚えたことはありませんでした。
ただ現地のブラジル人達は、我々のことはあまり理解してくれていなかったように思います。なので、日本の文化・価値観をポルトガル系の人達に伝えることは大変でした。

現地の言葉に無いものがあったりしますからね。例えば英語には「木漏れ日」という言葉がありません。日本独特の環境が生み出した言葉だと思います。そういった意味でも、理解しあえないこともあると思います。

Ⅱ:日本での活動の開始

日本に来たのはいつですか?

エリオ
大学を卒業してからです。大学まではサンパウロで生活していました。

日本に来ようと思ったきっかけは何ですか?

エリオ
大学はサンパウロ州立大学で、農工大学の姉妹校でした。
日本と違って5年制でした。4年間座学や実験をした後、5年目の最後の半年間は研修を行わなければなりませんでした。それが卒業の条件です。

農業分野では日本の技術が使われている事が多かったので日本に興味がありました。ブラジルの企業で研修をすることは出来ましたが、日本で研修をすることをめざしました。

運よく日本の企業で研修ができるようになり、山梨の勝沼醸造で研修を始めました。距離的に近い農工大に同期と先輩が在籍していて、連絡することが時々ありました。

そんな時、「農工大学でブラジル移住100周年の記念シンポジウムがあるから、遊びに来ないか?」と誘われて、農工大を訪れました。
その時に、国際環境農学の山田先生と初めてお会いしました。


上段左から、エリオさん、加賀美先生
下段左から、山田先生、千年先生

ブラジル移住100周年の記念シンポジウムには私もかかわりました。会場の設営やブラジルからの来賓のお世話とか、アルバイトの人達の調整とか大変でしたが面白かったです。
山田先生の企画力と交渉力と担当の方々の力で、シンポジウムは大成功でした。

エリオ
私は初め遊びに来ただけだったので、そのまま帰ろうと思っていました。
ところが、ブラジルからの来賓の一人が、京都に行くけれども同行する人がいないという状況でした。先輩が山田先生に「日本語を話せるブラジル人がいるので、同行者としてどうか・・・」と私を推薦してくれました。
山田先生には、一発返事で「宜しく」と頼まれました。逆に、「それでいいの?」とプレッシャーを感じました。

山田先生との関係はそれが初めだったのですね・・・

エリオ
京都での経験は、自分にとって大変有意義でした。
そんなこともあり、お礼のメールを山田先生に送ろうとしていたら、山田先生から電話がありました。

最初に「なんでそんなに日本語が上手なの?」という事を言われました。サンパウロ州立大学の日系ブラジル人の学生で、日本で研修をしていることを説明したところ、先生は私に興味をもってくれました。
「君の先輩が帰るから、その後の奨学金の枠にアプライしてみないか?」と誘われました。ブラジルに帰国後、ブラジル州立大学の担当の先生に相談をして、アプライしました。

結果が出るまで半年かかるという事でしたので、卒業後日系の企業でアルバイトをして結果を待ちました。
半年後に合格の知らせを受けましたが、正直迷いました。日系企業の社長が私を気に入ってくれて、マナウス(注:1)に連れて行くという話を進めてくれていました。
(注1)ブラジルの北部、アマゾナス州の州都
先輩にも相談しましたが、「日本に留学できるなんて、滅多にある事じゃ無いのだから・・・」と言われて、留学することにしました。

山田先生に人をつかむ力があったという事ですね。エリオ君の人生が大きく変わった瞬間だと思います。

エリオ
山田先生の研究室に入った訳ではありませんでした。退官まであと半年の濱野先生の研究室に最初に所属しました。そこに所属しつつ、修士課程の研究の大半を応用生命化学専攻の川合信也先生の研究室で行わせていただきました。

濱野先生退官後は同じ専攻の木村園子ドロテア先生の研究室に所属し、修士課程を終えることが出来ました。

余談ですが、退官の時濱野先生の部屋の後片づけもしました。

濱野先生に後片付けを頼んだのは私です。結構エリオ君とは繋がっていたのですね。

エリオ
濱野先生は、私が大学在学中にサンパウロ州立大学農学部を訪問していて、昭和の人という感じでなじみやすかったです。

卒業の2カ月くらい前に山田先生に呼ばれて、ブラジルの草の根事業への協力を依頼されました。やったことが無かったのですが、いい機会だと思って、お引き受けしました。

初めは、日本から現地スタッフをサポートし、日本でプロジェクトを管理するという仕事の予定でしたが、色々とあって現地での業務調整を担う事になって、アマゾンに行くことになりました。

結果的に良かったと思うけど・・・

エリオ
そういうきっかけが無かったら、自分からアマゾンに行くことは無かったと思います。サンパウロにいて、アマゾンは危険地域という認識でしかありませんでしたから。

エリオ君がアマゾンをそのように思っていることは感じていました。私がトメアスーでビデオ撮影をしていたら、高級機材を持っていると襲われてしまうからやめたほうが良いと言われました。
また、山田先生は現地で車がエンストした時に襲われて、自分はもうおしまいだと観念したという事を言っていました。

エリオ
サンパウロの学校では熱帯地域独特の病気についても学びます。主に寄生虫についてです。
悪夢に出てくるように感じました。一番恐怖に感じたのが、シャガ―ス病(注2)です。「安心してください、サンパウロにはいません」と聞いてほっとしたのを覚えています。

(注2)家の土壁、屋根、天井、マットレスなどに生息しているサシガメ類昆虫の糞に含まれるトリパノソーマが粘膜、眼瞼結膜、皮膚刺咬部から体内に侵入することで感染する。侵入した部位の腫れや炎症、リンパ節腫腸で始まり、発熱、肝脾腫に進行し、一部の患者は急性心筋炎・髄膜脳炎で死亡することもある。

どこにいるかというと、アマゾンです。それで、アマゾンには行きたくないと思っていました。

山田先生にアマゾンに行けと言われた時は「えッ」と思いましたが、今では良い経験をさせて頂いたと思っています。
この案件が終わっても、アマゾンの人から連絡がきて、繋がりができて良かったと思います。

私も黄熱病の注射を打ってからアマゾンに向かいました。

エリオ
現在ではマストではなくなっています。今は黄熱病よりも、マラリヤやデング熱といった蚊を媒介して感染する疾患への対策が必要です。

Ⅲ:JICAジャイカ草の根プロジェクト

山田先生のJICA草の根プロジェクトは、どのようなものでしたか?

エリオ
日本は1929年から1970年代まで、ブラジルアマゾンへ約5千人の開拓移民を送り出しました。

日本人が農業経験に乏しい湿潤熱帯の奥地でなかなか適作を見出せない間、移住者たちは熱帯病と闘いつつ陸稲や野菜の栽培を行いました。

植物病害の蔓延や国際相場の乱高下に翻弄され、大半の人々が転住を余儀なくされました。しかし、中には転住が出来ない人々もいて、残った人は試行錯誤を経て、トメアスー入植地を中心にコショウを含む遷移型農林複合経営=アグロフォレストリー(注3)と呼ばれる、SAFTA(SistemaAgroflorestaldeTomé-Açu)を形成してゆきます。

(注3)農業・林業を同じ場所で行い、お互いの恩恵を最大限に利用しながら豊かな森を育む包括的でサスティナブルな農業。この方法の大きな特徴は、従来のように森を切り開いて畑をつくるのではなく、さまざまな植物や木々を一緒に植えて、森を再生させながら農業生産を行えること。

アグロフォレストリー

トメアスーに移住した日本人とその子孫によって建てられたトメアスー総合農業協同組合(CAMTA)と協力して、現地非日系家族経営農家向けSAFTA技術移転パッケージを開発する事業です(2011~2015)。

トメアスー総合農業協同組合(CAMTA)

産地認証(注4)を取らせるというところも一つの課題だったように思いますが・・・

(注4)科学的データに裏付けられた食品産地であることの証明

エリオ
計画段階では産地認証の様な特定の認証制度を導入する事が目的ではありませんでした。

しかし、現地のカウンターパートから意義のない認証取得に対し反発があり、同意を得る事が困難でした。そこで、認証を得る事に対する意義について、日伯専門家の指導や国内外研修を通じて理解を深めてもらい、さらに現実的かつ意義のあるブラジル連邦政府公認の産地認証の取得を目指すことにしました。

JICAとしては、計画されていた認証を期間内に得られなかった事に対する不満はあったようですが、結果的に産地認証の取得が叶い、パラー州で最初の農作物における産地認証を取得する事が出来ました。
今はこのプロジェクトの成果が、色々な形で表れてきています。

産地認証マーク

長い目で現地での定着を考えるべきだと思いますよね・・・

エリオ
草の根事業は期間が短くて、少ない資金では現地での成果は限られてしまいます。むしろ、事業が終わった後どのようにその成果を発展させるかが重要だと思います。
JICAはそこいら辺の活動に力を注いでほしいと思います。

4~5日前の現地の方からのメールに、現地のニュースが添付されていました。その内容は、パラー州政府が産地認証を取りたい団体に対して補助金を出すという事が書かれていました。

最初に産地認証が認められたのは、JICAの草の根事業終了後ですが、我々が始めたプロジェクトのトメアスーのカカオです。これがきっかけになったという事は、ニュースにも掲載されていました。

産地認証に対する現地での評価が高まったという事だと思います。今になって当時の活動の成果が実っているわけです。

ブラジル案件ではJICAの評価は低かったけれど、我々が活動を終えた後も現地の人達が努力してパラー州で最初の産地認証を取ることができました。
その結果として、その後現地では他の農業団体による産地認証の取得ができて、パラー州政府が産地認証を取りたい団体に対して補助金を出すことにまでつながっています。

現地の人達が活動を継続してくれて、現在の状況が生まれていることに感動を覚えます。
そういった意味で、山田先生には先見の明があったと思います。

エリオ君にとって、JICAの草の根事業はどのようなものでしたか?

エリオ
あの4年半の活動が勉強になりましたし、自分の人生にとっても意味のあることだと思います。もちろん山田先生や私だけではなく、当初から携わってくれた農工大学の草の根支援室の赤井さん、松田さん、德永さんや途中から入られた池谷さん・立岡さんには大変お世話になりました。

色々な協力体制があって、このような結果になっていると思います。

もともとサンパウロ出身で、パラー州のことはほとんど知りませんでしたが、このプロジェクトでアマゾンの流域でトメアスーのような立派な農業をやっている所があることを知って、自分にとって宝になりました。

大学としてはこの案件を通じて教員や学生もブラジル現地に送り出すことができたりして、教育的効果はあったと思います。

エリオ君がプロジェクトのかなりの部分の運営を担ったことは、エリオ君にとってかなりプラスになったと思います。全体像を見る視点が養われたのかなと・・・

エリオ
葛藤はいっぱいありましたが、逆に言うと山田先生が若い私に任せてくれたことには感謝します。
それ以前からずっとJICAの支援を受け続けていたトメアスーという集落は、特異な場所であることは間違いがないと思います。逆に、補助金慣れしているようなところがあって、誰かがやってくれるものという認識が強かったと思います。

それがあの草の根事業を契機に、自分たちで動くという姿勢が生まれてきたと思います。若手が協力するようになり、全く関係のないブラジル人までも参加してくれるようになりました。


トメアスーの様子

トメアスーに行かせていただいた時、100m先で殺人事件があったと聞いて、ブラジルのアマゾンって危険なところだなと思いました。
そんな危険なところに、入植してあれだけのことを成し遂げたのを目の当たりにすると、日本人ってすごいなと感じます。

Ⅳ:アグロフォレストリーの今

現地では、草の根事業の時と状況は変化していますか?

エリオ
草の根事業の時は日本でアサイー(注5)が注目されていて、重要な生産品でした。今では売れなくなってきていて、他の作物にシフトしていく事が課題になっています。

(注5)ブラジルのアマゾンを原産とするヤシ科の植物。大きく生長すると25mもの高さになり、ほうき状の房にブルーベリーよりひと回り大きい黒紫色の実をつける。可食部にポリフェノールや鉄分、ビタミンE、不飽和脂肪酸など豊富な栄養素や抗酸化成分を蓄えていることから、日本でもブームになり現地での生産を支えたことがある。

アサイー

今は、アブラヤシ(注6)に力を入れている状況です。もちろんアグロフォレストリーの延長上ですが・・・

(注6)ヤシ科アブラヤシ属に分類される植物の総称。果肉と種子からパーム油が取れ、商業作物として主にインドネシアやマレーシアを中心に大規模な栽培(プランテーション農業)が行われている。

プランテーションでのアブラヤシは、アグロフォレストリーを利用したアブラヤシとはどこが違いますか?

エリオ
プランテーションでは、効率的に生産を行うために数千から数万ヘクタールの土地を転換して単一栽培を行うため、森林減少やそれにともなう生物多様性の喪失など、環境面への影響が以前から問題視されてきました。

一方アグロフォレストリーを活用したアブラヤシ栽培では、単一栽培にすることなく色々な樹種を組み合わせた植え付け栽培をしています。面積当たりの植え付け作物の種類が多く、アブラヤシ以外の作物の生産も出来るという事です。

コロナ禍が始まってアブラヤシの価格が下がって来て大豆を生産しようという事になってきています。プランテーション型大豆栽培では、果樹園などを営んでいる近隣農家で、大豆畑に散布された除草剤の被害も起きています。その為、アグロフォレストリーを活用したアブラヤシ栽培等を広めていく事が重要だと思います。

今は、大豆を運んでいるトラックがとても多いのを感じます。

アブラヤシの価格は、インドネシアで大規模に栽培していたりして安定しませんよね。

エリオ
アブラヤシの価格が下がって大豆に移行したら、今度は、アブラヤシの価格が上昇しました。

そうなると、トメアスーのアグロフォレストリーを利用したアブラヤシの生産が、多種類の作物を植えていたこともあって、注目されて良い収入があげられるようになりました。ある意味危険分散した結果が良い結果を生んでいるという事になります。

今のトメアスーの問題点は何ですか?

エリオ
高齢化と、日系人の減少というのが問題ではあります。農業人口の減少及び労働力の都市部への流出により、土地の集約化が始まっています。アグロフォレストリーは、単位面積当たりの労働力がプランテーションよりも多く必要で管理も難しいので、小中規模農地での栽培に適しています。

200haのアグロフォレストリーを維持するのは大変で、それができる人は限られてしまいます。さらに経営を考えると、どれだけ優秀な従業員を定着させることができるかがカギになってきます。

そういった優秀な労働力の確保の困難性や土地の集約化により、プランテーションに移行せざるを得ない農家が増えてきている状況は、結果的にアグロフォレストリーの減少につながる可能性があります。

金があっても、優秀な人がいないと成り立たないという事ですよね・・・

エリオ
優秀な人材の確保が成功の鍵だという事だと思います。
リーダーとしての資質は、人を見る目が重要だと思います。人の気持ちが分かるという事も不可欠だと思います。
まだそういったリーダーは存在しているので、今でもトメアスーは重要な拠点であると思います。

現地支援という意味では、短期的な視点での資金の投入は効果が薄いと思います。日本全体の考え方に問題があるように思います。

エリオ
トメアスーの組合の購買とか営業担当のところに行くと、「日本の商社は高圧的で不愉快な思いをした。」という事をよく聞きます。

中国の南米への進出が進んでいます。1990年代から2000年代にかけてブラジルは中国の移民を受け入れてきました。

中国企業がブラジルに投資をしようとすると、移民して現地で活躍している中国人が協力をして、成功に結び付けるようになってきています。

そんなこともあって、ブラジル国内で中国が台頭してきていると思います。日本は、移住政策はもうやっていませんよね。
今いる日系人は2世・3世がほとんどなので、日本に対する帰属意識は小さくなっているように思います。

世界的に見ても、中国の力強さを感じますよね。大きな中国人街はあっても日本人街はとても小さかったりします。

エリオ
ブラジルは他の社会や文化を敬ってくれる国だと思います。それなので、日系人も閉鎖的になることなく活動できたと思います。ボリビアやペルーに行くと、入植した日系人は閉鎖的であったりします。

中国人は、中国人同士閉鎖的にビジネスを進めます。現地の人達にとって経済的なメリットはあっても社会的文化的なメリットは小さいように思います。

山田先生は、移民政策は最も効果がある技術移転事業だと言っています。さらに日系移民は社会的文化的な価値観を現地に残したことが大きな貢献だとも言っています。

ブラジル国内において、日本の評価が落ちていないのは、長年閉鎖的になることなく社会的・文化的に理解しあってきたことがあるからだと思います。

ブラジルの養蚕の技術が日本と同じレベルにあるという事は、日系移民を通してブラジル国内に養蚕という社会的・文化的な価値観が根付いたという事かなと思います。

Ⅴ:今の活動について

ブラジル案件が終了した後のことを聞かせてください。

エリオ
山田先生のプロジェクトのお手伝いをしながら、色々と学びました。

ガーナのプロジェクトがあって、2回程ガーナに行ったりしました。アフリカまで行くとは思っていませんでしたが、視野が広がったと思います。ガーナの人をブラジルに連れて行くというミッションや、ガーナでブラジル案件の報告会を開いたりしました。

コンサルタント会社に勤めていた時もありました。農業土木とか鉄道とか工業団地とかのコンサルタントをする会社です。総合コンサルですね。

そのほかにも、千年先生のお手伝いをしたりしました。農工大学・電通大学・外語大学の各大学が提携している中南米の大学の交換留学推進や姉妹校提携をするという事業です。ブラジル人や中南米の学生の世話ができる私に白羽の矢が立ったという訳です。

お手伝いが終わったころコロナ禍になってしまい、山田先生もその影響で海外案件ができなくなって苦労していました。

現在、週3日農工大に来ているようですが・・・

エリオ
山田先生の案件を手伝っています。
生薬の案件です。日本の生薬関係の業界は中国の薬草に依存しています。中国が経済発展をして、自分たちで薬草を消費するようになって値段が高騰しました。
将来は、入手することも難しくなるのではという事で、ある程度自給できるようにしていこうというプロジェクトです。

活動の範囲はどこですか?

エリオ
日本全国ですが、私は三ケ日や筑波を中心に活動しています。
山田先生は、奈良県から岩手県あたりまで飛び回っています。

今後、どの様な活動を中心に活動していこうと考えていますか?

エリオ
今は、発展途上という感じですね。コロナ禍の3年間が無ければ、ブラジルに調査に行けてデータが取れて、違った形になっていたかもしれません。
それは致し方ないと思いますが、コロナ禍の時の不満はあります。でも、またコロナのようなことが起きるかもしれませんから、何か確固たるものを作っておく必要があると感じています。

誰かに声をかけてもらうという事ではなくて、自分が主体的に関わっていける何かを持ちたいという事ですね。

エリオ
そうですね。
池谷さんが南極から帰ってきたとき(注7)、仕事もなくて不安で大型の運転免許を取って、運送の仕事ができるようにしたと聞いたことがあります。

(注7)私(池谷)は2度ほど南極観測隊で越冬したことがあります。帰ってきて、職業が不安定な時期がありました。
その気持ちは良く分かって、常に何かの備えは増やしておいた方が良いと考えています。自分に何ができるかと考えたときに、自分が学んできた農業という事に関連することで生活の糧になってくれればよいと考えています。

人生どう転ぶかわからないけれど、色々とやっておいた方が良いと思います。

エリオ
そういう事ですよね。

今日お話を伺って、エリオ君と色々な場面でつながっていたことが分かりました。今日はそういった意味でとても良かったです。

エリオ
池谷さんを色々と参考にさせてもらっています。

お役に立てて光栄です。本日はありがとうございます。

エリオさんへのインタビューの感想
エリオさんとは久しぶりの会話でしたが、相変わらず超日本人的だなと感じるとともに、自分の言葉に対する自信のようなものが感じられ、成長しているなと思いました。

またJICA案件だけではなく、私が大学事務官だった時の仕事が、エリオさんと結構関係があったのには驚きました。ブラジル移住100周年の記念シンポジウムは、私にとって思い出深い仕事の一つでしたが、この時にエリオさんが京都まで行ってくれたことを、初めて知りました。

エリオさんは、コロナ禍や社会情勢の変化の中で、自分が思い描いていたことをすべて実現できている訳ではありません。しかし、日系ブラジル人として独特な視点で日本を見つめて、農工大学で学んだことを社会に還元しつつ、未来に向かって前向きに取り組んでいて素晴らしいと思いました。
こうほう支援室池谷記