一般社団法人 東京農工大学同窓会

2024.10.21 かがやく同窓生

府中キャンパス内の二つの石碑

加藤誠(農工院S46)

東京農工大学は、昭和24年に、東京高等農林専門学校と東京繊維専門学校が合併し、キャンパスはそのままにして、工学部は小金井市に、農学部は府中市に、設立された新制大学である。両専門学校ともに、それぞれ歴史がある。ここでは、私の学んだ農学部に大切に残されている二つの石碑について、お話しする。

二つの石碑


上の写真は、農学研修所(後の、東京農林専門学校)の開祖の大久保利通公の顕彰碑である。なにゆえに大久保利通公の石碑がここにあるか?その歴史を簡単にお話しする。

東京農工大農学部の誕生!

大久保利通公は明治政府の最高重要人物で、明治維新の功績に対し、参議(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允)は、明治天皇より賞典禄(注)(1800石)を授けられた。明治4~6年明治政府は、岩倉具視を団長に、西欧使節団を派遣し、日本の近代化の事業を始めたばかりであった。帰国後、日本の近代化を目指し、明治7年に、新宿区内藤にある、勧業寮農商務省管轄の内藤新宿出張所に農事修學場を設置し、全国各県より若者二名が集められた。

(注)明治維新に功労のあった公卿、大名および士族に対して、政府から家禄の他に賞与として与えられた禄。

なお、新宿区内藤は、現在の新宿御苑であり、日本で初めて、ガラス張りの温室を建設したり、園芸作物や森林などの研究がはじめられていた。当時、海外から集められた、樹木と思われるが、ヒマラヤスギの巨木が、公園入口にある。

大久保利通公の本事業の目的は、農業は国の基本産業である。そのため農村部で、実際に農業技術の普及、農業水利事業や農地保全事業を指導し、実践する技術者の養成が急務であることを提唱し、賞典禄をその設立と運営に投資された。

この修学場設置に建物や学生の奨学金を含めて、5423円96銭8厘(賞典禄の2年分)が投じられた。この修学場は、予科と試業科と二つの学科を有し、農業試業科は実科ともよばれた。

その後、明治10年には、現在の井の頭線の駒場東大前にある、加賀藩前田公爵邸の牧場の地に駒場農学校が設立された。構成学科内容は獣医学、農学、農芸化学、農学予科、農学試業科などであった。この農学校は、外国からの英知を学ぶため外国人教師が多く招聘された。血気盛んな学生たちが多く集まった。

大久保利通公の遭難!

悲しい事件が発生した。
明治11年5月14日、大久保利通公は政府に出勤の道で、暴漢に刺され落命、49歳でした。場所は四谷の千代田区紀尾井町で清水谷公園付近(この谷の上には、ホテルニューオオタニがある)。現在、清水谷公園には、その記念碑が建立されている。明治天皇はたいそう悲しまれたと聞きます。そして、青山墓地に葬られた。

毎年、命日には、駒場農学校の学生ら、その後に続く東京山林学校、東京帝国大学農科大学の時代の学生や教職員は、墓前祭を毎年行っていた。

東京山林学校の設置!

明治14年には、駒場農林学校と東京山林学校を合併させて、構成学科は農学、獣医学、林学とし、それぞれ本科、予科と実科が有ったが、実務者養成型の東京農林学校を設置した。

一方、明治政府は帝国大学の制度を推進し、明治23年には東京帝国大学農科大学にとして帝大に統合された。東京農林学校は、東京帝国大学農科大学実科と呼ばれた。

筑波大学生物資源学類の誕生!

駒場の地には、農業教員の充実を図るため、明治31年には農業教員養成所が設置された。その後、学制が進み、東京農業教育専門学校となった。関東大震災後、第一高等学校と東京帝国大学の敷地交換後も、駒場の地に残った。昭和24年には、国立学校設置法により、東京教育大学農学部に、筑波大学の新設とともに筑波大学生物資源学類へと発展した。東京教育大学農学部の跡地は、大学入試センター、駒場野公園と東京都立国際高等学校として利用されている。

東京帝国大学農科大学時代の実科!

開学以来、学制の進展とともに、大久保利通公の提唱による農業修學所は、各県の実務を実践する農業技術者の養成にありと言う、その精神は脈々と続き、東京帝国大学農科大学における実科の教育目標も“農業を実践するための教育“を堅持していたが、新しい学制となると、その体質が徐々に変化して行くため、”農学は舌耕にあらざるなり”と主張し、東京帝国大学に合併したことによる教育目標の異変に多くの不満が生じ、それが蓄積していったのだろうと思われる。

東京帝国大学農科大学から独立!

そこで、昭和7年に現在の府中の東大演習林に研究棟や学生宿舎を建設し、東京帝国大学農科大学の駒場から府中の地に独立した。移転後も、駒場の大学キャンパス時代を懐かしむ若者にとって、駒場には、大きな夢があったのだろうと思われる。府中に移転した後にも、学生寮の名前は、“駒場寮”と称した。そして、寮歌として、“駒場小唄”が歌われ、今日までも“駒場小唄”が歌い続づけられている。駒場小唄は、後述する。
そして、昭和12年には東京高等農林専門学校と改称した。

府中キャンパスで墓前祭を!

また、明治11年5月14日の大久保利通公の遭難以来、命日には、青山墓地で墓前祭を行っていましたが、府中に独立後は、府中から青山までは遠く、命日に墓前祭を府中で行える様、府中キャンパス内の教育研究棟本館前に、顕彰碑を建立し、墓前祭を府中キャンパスで行った。

なお、顕彰碑の基礎の大きな礎石の真ん中を刳り抜き、その中に大久保利通公の護身用の短刀が桐の箱に収められ、埋設されているという。

東京農工大学工学部の歩み!

工学部は、明治政府が内藤新宿出張所に設置した勧業寮蚕業試験掛がその前身である。明治維新以降、生糸は輸出の“花形”産業であった。その蚕糸産業の技術教育と品質管理の研究が行われ始めた。明治17年には、農商務省農務局農産陳列所内に蚕病試験場が設立された。場所は麹町区内山下町1丁目1番地である。教育内容は、動植物学、理化学、蚕体解剖生理学および病理な基礎科目と養蚕実習であった。

当時は鹿鳴館時代であった。蚕病試験場の隣に鹿鳴館ができた。西洋では、舞踏会の後に、紳士淑女は、館で宿泊をするので、東京にもその宿泊施設が必要とのことであり、また、蚕病試験場のような教育施設の隣が鹿鳴館では、なかなか不釣り合いであった。そこで明治19年に蚕病試験場を駒込の西ヶ原農業研究所に移設し、跡地にホテルを建設した。これが、現在の帝国ホテルである。

その後、明治32年には東京蚕業講習所と改称。このころ、京都蚕業講習所(京都工芸繊維学部)、上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部)などが設置された。大正3年には、文部省に移管され、東京高等蚕糸学校と改称し、小金井市に移転した。

その後、学科の充実、女子教育用の学科の設置などの充実を見た。昭和19年には東京繊維専門学校となり、天然繊維、化学繊維と蚕糸まで、繊維について幅の広く対象とする教育研究機関となった。

東京大学教養部駒場キャンパス!

なお、関東大震災後、昭和10年には駒場の東京帝国大学農科大学は、本郷の第一高等学校と敷地を交換し、昭和24年には新しく、東京大学の教養部となった。

東京農工大学の設立!

昭和24年には、新制大学発足とともに、東京繊維専門学校(小金井市)と東京高等農林専門学校(府中市)は合併し、東京農工大学を設立した。

東京農学系学部は三兄弟!

このように、東京大学農学部、筑波大学生物資源学類と東京農工大農学部は、現在の東京大学の教養部のある地に同居していた。いわゆる、三大学の農学部は、親が同じで、兄弟分でもある。

忠犬ハチ公のこと

さて、東京帝国大学農科大学が駒場にあったころに、ここに通う上野英三郎先生がおられました。上野先生は、ドイツで土地改良学を学ばれた。その内容は農業水利学、耕地管理学で、その後、この分野は農業土木学として発展した。したがって、上野先生は、農業土木の開祖と言われている。上野先生は、三重県津市出身である。農業土木学は、私の専門でもある。

上野先生のお宅は、吉祥寺にあり、省線に乗って渋谷駅まで通勤されていた。その渋谷駅で先生を朝夕お迎えしていた、“秋田犬”がいた。それがハチ公で、ご主人が渋谷駅に来られなくなっても、毎日ハチ公は、渋谷駅にご主人をお迎えに来た。その後、忠義な犬として世間で話題になり、JR渋谷駅前広場にハチ公の銅像が建てられた。

初めて日本で、化学肥料を使用した水田

次の図は東京のど真ん中で稲作が行われているところがです。目黒区の管理の駒場野公園内の“ケルネル田圃”である。井の頭線の駒場東大前駅の南側に小さな谷筋の底に、小さな水田が展開されています。この水田は、駒場農学校が移転してきた頃から稲作が始まり、おそらく東京帝国大学農科大学のころだと思うが、日本で初めて、化学肥料を使って稲作を始めた記念すべき水田である。

昭和40年ごろに、目黒区役所がこの水田を埋め立て、公園に整備したい意向を示したが、当時この水田を管理していた東京教育大学農学部先生方が、“日本で初めて化学肥料を使った記念すべき水田を潰すわけにはゆかない”と内藤教授らが反対を区に申し込み、その後、駒場野公園として残された。今では、市民の憩いの場所となっているのみならず、昆虫や魚類など大都市の真ん中に残った生態系の保全に役立っている。

駒場小唄と駒場寮碑の建立

時代は流れて昭和40年頃、農学部の東京農林専門学校(府中キャンパス)時代からの木造二階建ての駒場寮は、火災でも起きたら、“府中市内で一番危険”と言われる程、老朽化した。また、工学部の東京繊維専門学校時代からの学生寮は、駒場寮と同様に老朽化した。そこで、二つにキャンパスが二か所に分かれているので、それぞれのキャンパスに学生寮があった。
新寮の建設場所は、管理の容易さから、寮は、一大学に一か所にしか作らないとの原則を文部省は押し通し、工学部の小金井キャンパスに新築することになった。そのため、府中キャンパスの駒場寮は取り壊すことになった。そこで、旧寮生が中心となり、駒場寮の敷地の隅に、駒場寮の記念碑を建立した。記念碑の銘文には、寮生のみならず全学生が愛唱した、“駒場小唄”の中の“雲と自由の住むところ”とした。これが、大久保利通公の顕彰碑とともに農学部キャンパスの歴史を語る二基の記念碑である。

参考;(二)胡瓜(キウリ)、(三)鞴(フイゴ)

駒場寮跡石碑 樋口康一氏撮影

加藤誠先生は、東京農工大学名誉教授。長年本学の農業工学関係の教育・研究に携わって頂いた方です。(こうほう支援室池谷記)