一般社団法人 東京農工大学同窓会

2024.12.16 かがやく同窓生

北海道と静岡県で森林経営の新たな展開を目指す -豊かな生態系の再生と地域経済の活性化に貢献-

北海道と静岡県で、一般財団法人史春森林財団の代表理事として活躍している同窓生がいます。菅野知之さん(林学S58)という方です。たまたま菅野さんから同窓会に勤務先等変更のお知らせを頂いて、勤務先の「史春森林財団」という名前に興味がわきました。

調べたところ、この財団のコンセプトは、「経営・管理できなくなった森林を、所有者からの寄付により譲り受け、森林経営を通じて豊かな生態系の再生と地域の活性化に貢献する。」というものでした。

大変興味がわきましたので連絡をして、取材を申し込んだところ、ご快諾いただきました。2024年5月末に愛知県の新城市のご自宅にお邪魔して3時間を超えてお話を伺いました。
今回は、そのすべてのことを書くことは出来ませんが、菅野さんの経歴や考え方をご紹介できればと思います。

菅野知之さん

Ⅰ:はじめに

ご出身は?

菅野

前橋で生まれて、2歳の時から林野庁に就職するまで東京都の三鷹市で過ごしました。

このような自然に囲まれたところにお住まいになっているというところを見ると、自然が本当に好きなんだなと思います…

菅野

そうですね、子供の頃から自然が大好きでした。当時三鷹近辺は、自然に囲まれていました。国際基督教大学が近くにあって、自然豊かな構内でよく遊んでいました。河岸段丘の下に野川が流れていて、地下水が湧いていたりしました。
小学校は三鷹市立の学校に通っていて、歩いて40分くらいの所でしたが、登校時は畑の中を歩いている感じでした。キャベツ畑にモンシロチョウが飛んでいたのを思い出します。

大学は東京農工大を目指していたのですか?

菅野
東京農工大学しか受けませんでした。住まいに近いところで、林学科があるという事で選びました。
共通一次の最初の年でした。

林学科を受けたいと思った理由は?

菅野

高校時代に、農学か林学かという様に考えていましたが、より自然に近いという事で林学科を選びました。

学生時代はサークルに入っていましたか?

菅野

最初、馬術部に入りました。時間的な制約もあって半年で辞めましたが…
鹿の食害についての研究を始めて、丹沢とか日光に年間1/3位通っていたので、早めにやめていて正解でした。

1年生の時からゼミに参加していたという事ですか?

菅野

そうですね。古林先生のゼミに参加して、さらにその紹介で、日本自然保護協会の学生ボランティアもしていました。
カモシカ食害防除学生隊というのに参加していました。全国代表までやりました。その時の付き合いで今の財団の理事をお願いしている人もいます。
信州の山奥に一カ月くらい入って、苗木にポリネットをかけてカモシカから守るというボランティア活動をしたりしました。

自分が学生の頃、カモシカは特別天然記念物で保護の対象だったように思いますが…

菅野

局部的に長野県の伊那谷とか滋賀県の伊賀甲賀山地などでは、昭和40年代に民有林の大皆伐があって、一気に草原を作ったので、カモシカの食料が増えてその数が一挙に増えました。
その後に、杉やヒノキを植えても全部食べられてしまうような状態でした。草原を作るとカモシカや鹿が増えます。

やはり学生の頃、鹿の保護も叫ばれていましたように思います。今は鹿が増えましたよね?

菅野

このあたりでも鹿は急に増えました。夜になると鹿の影が窓に映ったりします。熊はいませんが、イノシシは毎晩のように出てきますし、カモシカは山の上の方に現れます。
フキノトウを鹿が食べるので、フキが絶滅してしまいました。杉の下草でアオキが群生していましたが、今は鹿に食べられてしまって、全然生えていません。
毒のあるアセビとかシキミとかサカキしか生えていませんので、鹿の食料がなくなって里の方に現れるようになったのだと思います。

昔から鹿は生息していたのですか?

菅野

昔から鹿との戦いはあったようで、地元の神事にも鹿討神事が受け継がれています。一時期、食糧難の関係で鹿が食べられて減ってしまったという事なのか、私がここに住み始めた頃(30年ほど前)は、鹿は全くいませんでした。
戦後しばらく(昭和40年くらいまで)は燃料にするために里山が定期的に伐採利用されていました。その為、常に明るい森があって多様性があったと思われます。
その後、杉やヒノキが一斉植林されましたが、大きくなるまでは下草などは結構育っていましたので、鹿の食料となる植物はたくさんあったはずです。杉やヒノキが大きくなると食料が少なくなって、当時、鹿が生息していたエリアから徐々にこのあたりにも生息域を広げたという事かもしれません。
もとに戻ったという事でしょうか…

鹿や熊などの害に関しては、里山の崩壊という事で起こっているという理解が一般的で、お話のような観点では語られていませんよね?

菅野

私がカモシカの問題でかかわった奥山の地域では、事情が少し異なっています。里山とは違って、奥山は樹木をほとんど伐採してしまったことが原因です。
北海道でも鹿の問題は大きくなっています。

卒論はどんなことをやったのですか?

菅野

カモシカに食べられた杉やヒノキがどうやって再生するかという事をテーマにしました。筑波の森林総研に行って研究させてもらいました。
食べられた木の丸太を山から伐ってきて縦割りにして、芯の成長の経過をグラフにして解析しました。その結果は、2、3年の成長の停滞はあるけれども、それを通り過ぎると伸びてくるということが見られそのことを論文にしました。

評価は色々でしたが、単にカモシカを撃って減らせば良いという考え方ではなく、共生していくという視点で物事を考えていました。


卒論作成の頃の菅野さん

今でも、殺してしまうという観点と共生という観点の対立はあるようですが…

菅野

今は、積雪期間が無くなった影響なのか、当時と比べ桁違いに鹿が増えていて、銃で撃って減らさない限り、林業の問題もなくならないと思うようになっています。
史春森林財団の本部がある北海道の広尾町は人口6,000人くらいの町ですが、年間1,500頭もの鹿を駆除しています。それでも全然減りません。もっと駆除する必要があります。

今、鹿の食害問題とジビエで流通させる(食べる)という事は完全にリンクしていて、全国的な動きになっています。
この近辺でも、撃って鹿の肉をジビエとして流通させる流れがあります。鹿一頭を解体しても人間用に販売できる肉は10~20%くらいしかありません。撃っても罠でとっても、暴れてしまうと血が回ってしまって、食用販売用に回せないので勿体ないですよね。残りは皆捨てられてしまいます。

広尾町でも駆除された1,500頭の鹿のうち、ジビエとして利用できているのは1割くらいでしょうか。それも一部残渣は山に捨ててくるので、それをヒグマが食べてそれで今度はヒグマが増えてしまうという事が起きています。

Ⅱ:東京農工大卒業後

卒業後はどちらに行ったのですか?

菅野

一年研究生で残って、鹿の調査と食害について研究して、その後林野庁に入りました。
林野庁には8年いました。最初は森林保全課にいました。私の担当は松くい虫防除事業でしたが、となりの係ではカモシカ保護と被害対策との調整を担当していました。有害駆除をするかしないかという事を検討していました。政治問題化している時期でもありました。

2年目から現場に出ました。愛知県の奥の新城営林署です。国有林の担当区主任を2年やりました。その時に地域作り活動にもかかわりました。消防団活動などもしました。
次の2年間稲武町役場に出向して、妻と出会いました。その後、林野庁に戻って間伐対策室、森林組合課、むらづくり対策室で都合4年間仕事をして、それで林野庁をやめました。

辞めようと思った動機は?

菅野

先に現場のいろいろな状況を見てしまったので、霞が関でやっていることに違和感を覚えるようになりました。
また、家族を抱えて転勤ばかりという生活も良くないと思うようになりました。長女が生まれましたが、夜中の2時3時まで帰れないという生活をしていましたので。

それでここに来たのですか?

菅野

そうではありません。豊橋市内に3年間住みました。
林野庁時代、森林のことだけやっていても世の中が分からないと感じていました。それで、地域開発という事に興味を持つ様になっていました。地方シンクタンクの東三河地域研究センターという社団法人に入りました。

シンクタンクでは、豊橋・浜松の県境を越えた地域開発の研究や、提言をするという仕事をしていました。
当時大規模店舗法が出来て、商店街がどんどん潰れていくような時でした。それで、何とか商店街の活性化を図りたいという事で、商工会議所の調査をしたりしました。特に力を入れたのは、三遠南信地域総合開発に関連する事です。

高規格自動車道で浜松から飯田までの、山の中だけ走る三遠南信自動車道が計画されていました。山の中をどうして開発しなければならないのかという調査を、国土庁とか建設省からの委託で担当していました。

県境の59市町村の商工会とか役場の企画の人と知り合え、この地域に馴染みができました。
それで、もともと田舎に住みたいという希望がありましたので、田舎不動産の物件を探して、この土地を見つけて家を建てました。1993年ころ引っ越してきました。


ご自宅

その時は豊橋の仕事はなさっていたのですか?

菅野

1年間はここから豊橋のシンクタンクまで車で通いました。
その後、トヨタ自動車から里山モデル林の案内係を頼まれました。2005年開催予定だった「里山の自然と経済との調整」がテーマの「愛・地球博」愛知万博のために、万博協会の人達をはじめ里山管理に興味を持つ人たちにモデル林を案内するという仕事でした。

それがきっかけで、トヨタ自動車の社員になりました。当時、トヨタ自動車がオーストラリアで植林事業を始めましたが、国内でも森林事業をやるので、その企画をやってくれと言われ、その事業に1年半携わりました。

トヨタ自動車自体はこの新規事業への出資を見送りましたが、ベンチャーキャピタルからの出資を受けて、「株式会社ログウェル日本」として立ち上げることになりました。当時のトヨタの上司から「ベンチャーで独立してやらないか」と言われて、勢いでやると言ってしまいました。2000年の10月のことです。

ログウェル日本はどのような理念を持っていましたか?

菅野

里山で木を切って人間がその木材を使わないと、自然が豊かにならないと考えるようになっていました。

実際、杉・ヒノキだけが植えられていても豊かとはいえませんよね。伐採された木材を生かすため、国産材のネット流通を目指した事業を構想しました。

インターネットを通じて上流から下流までの情報を繋げば、効率よく国産材の流通ができて、山も豊かになっていくという触れ込みでやりました。
その当時はまだファックスの時代でしたから、工務店さんや製材所にインターネットを使っていただくという事は出来ませんでした。そうこうしているうちに赤字が膨らんできました。

最初のうちは6~7人社員を抱えていましたが、リーマンショックを境に社員にやめて頂き、私一人になりました。あとは、細々と自分の個人資産をつぎ込みながら24年間赤字を続けながらやってきて、4年前に清算しました。

Ⅲ:史春森林財団の設立

史春森林財団の設立のお話を聞かせてください。

菅野

ログウェル日本を立ち上げたら、色々とマスコミがとりあげてくれて、それを見て岡﨑時春さんという人が訪ねてきました。

その人は、東大の工学部を出て、東芝で東南アジアやヨーロッパにプラント輸出をする仕事をしていた方です。

環境に良い仕事をしたいという思いがあったようで、東芝を早期退職して東京にある環境NGOの「地球の友ジャパン」(現在のFoEJapan)の代表理事になられた方です。

NGOとして森林の合法流通とか違法伐採問題をやっていて、将来自分で森林をもって林業をやっていくつもりだという話をしてくれました。
「僕はNGOとして、君は株式会社として一緒にやっていこう」という話をされていました。それがきっかけでお付き合いが始まりました。

岡﨑さんは林業を始められたわけですね?

菅野
今から10年前に、県境を挟んで浜松側の天竜の山を買って、史春林業株式会社を設立して林業を始めました。「史春」という名前は、時春さんと奥様の史恵子さんの名前からとっています。
その時に、そこの森林の管理を私にお願いしたいと言われ、私が管理することになりました。
始めたときは30ha弱位でしたが、その後次の土地を買って合計60haくらいになって、今でも財団の山になっています。


天竜「浦川の森」

北海道にも事業展開しましたよね…

菅野

岡﨑さんが、天竜の山では儲からないから、北海道に買うと言い出しました。
当時、私はレストハウスもやっていましたが、岡﨑さんがそこにやってきて北海道面白いというので、見に行ったりしているうちに岡﨑さんご夫婦は広尾町に移住してしまいました。

岡﨑さんは、北海道の広尾にどういうご縁があったのでしょうか?

菅野

たまたまインターネットで、広尾町森林組合が売りに出していた山があって、それを買ったという事です。
移住して2年して岡﨑さんは77歳で亡くなってしまいました。
自分の代では完結しないと分かっていて、誰かに預けて引き継ぎたいと考えていたようです。亡くなる前後から、私に引き継ぐような話をしていましたが、容態が急変したという知らせを受けて、駆け付けましたが間に合いませんでした。
そんな感じでしたから、細かい引継ぎの話は出来ていませんでした。

岡﨑さんがお亡くなりになって大変でしたね…縁があったのでしょうか?

菅野

元々オペラ歌手だった奥様一人が残されてしまいました。奥様は芸術家肌でお年だったので、林業のことは全く分かりませんでした。娘さんと相談して岡﨑家の森林財産を全部、非営利型の財団に寄付してもらう計画を立てました。
一般財団法人でも非営利徹底型で設立すると、譲渡所得税非課税という特例が申請できます。それを見込んで非営利徹底型の一般財団法人を設立しました。
おととしの8月に寄付が完了しました。


広尾町の山の様子

林業経営の収益の考え方についてお伺いします。

菅野

岡﨑さんは、史春林業株式会社で、森林から出た収益を子供や孫に配当として配分したいと考えていたようです。
株式会社で3年ほど携わりましたが、漫然と森林組合に頼んでいるとそんなに収益は残らないと分かりました。

自分自身で経営する体制を整えないといけないと強く思うようになりました。また、委託先伐採事業者も森林組合ではなくて、もっと意欲があって、志を共有できる事業者と繋がらないといけないと感じました。
そのような事業者を育てつつ財団を作って、目途が立ったので一昨年財団に寄付してもらいました。それから、財団として本格的に経営が始まりました。

志を共有できる事業者とは、どのような方ですか?

菅野

天竜でも北海道でも、森林組合にいた若い人が、独立して林業会社を作っていてそこに現場のことは全部お願いすることになっています。
北海道では、岡﨑さんが移住したときに既にその若い人に目を付けていて、将来この人を史春林業の社長にしたいと思っていたようです。今は、彼にも財団の評議員に入ってもらっています。

天竜の山については、昔から私が付き合いのあった天竜フォレスターという会社に仕事をお願いして、効率の良い成果を上げてもらっています。
静岡の山も北海道の山も志を共有できる民間の事業者だけで、効率よく収益を上げる体制を構築できました。

財団の位置づけは?

菅野

所有と管理をしているという事です。
上物の伐採をしたり木材を販売したりするところを、仕事として委託しているという形態です。
所有と経営を一部切り離しているわけです。

販売の収益は財団に入らないのですか?

菅野

収益は財団に入ります。ただ、構成員に配当してはいけませんし、役員とか元の持ち主の家族に個別の利益が渡らないようになっています。事業目的に再投資することはできます。事業目的としては、生物多様性を高めるための森林施業をして環境に貢献していく事を掲げています。
元々ログウェルを作ったときに、そういう目的のために森林の経営と木材の販売を目指していました。ログウェルの使命を財団で継承してやっているともいえます。

今は財団一本でやってらっしゃるのですね…

菅野

そうですね、株式会社ログウェル日本を清算し、今年の1月から、ようやく財団法人の代表理事一本で財団の仕事に集中できるようになりました。

Ⅳ:事業目的の実現に向かって

事業目的の実現に向かっての活動についてお伺いします。先ず、使わなくなった森林を、有効利用してというところは上手くいっているのですか?

菅野

持ち主から寄付してもらうという事を定款で決めています。それは、岡﨑家から寄付してもらうという事を念頭に定めたものです。
将来的に、岡﨑家の土地のような良好な物件が出てくれば、広げるという事もありうると思います。なかなかそのような物件は出てきませんが、一つの模範例としての提案は出来ていると思います。

森林政策の上では、持ち主の分からない森林が荒れ放題になっているのは大きな問題ではあります。ある一定の条件であれば、提案できるところまでは来ています。

私は最初、活用が出来なくなった森林を集めてというところに興味を持ちました。

菅野

将来はそのような活動に広げていきたいと考えています。ログウェル時代に持ち主が分からない森林をどうするかという研究会に誘われて入りました。元林野庁の幹部の人たちと、色々な地域の状況を見に行ったりしました。

自分の頭の中にある大きなテーマは、「経営できなくなって且つ持ち主が分からない不動産としての森林を誰にどうやって引き継いでもらうか」というのが一つと、「生物多様性と経済活動」というのがありました。

林業経営の中で「生物多様性にどのように向き合っていくのか」も重要だと思います。

菅野

史春の北海道の山は、平地ばかりです。かつて農耕地だったところに木を植えて森林になっている所ばかりです。大樹町の森林は、かつて軍馬の牧場だったところです。
農業をやろうと思えばできる土地です。木を植えても笹ばかり生えて、草原になってしまっている所もあります。そういうところをどのように活かしていくかも課題になっています。
笹は厄介ですが、栄養価はものすごく高いようです。たんぱく量がものすごく多いそうで、飼料としては有用です。鹿が栄養源にしていることもうなずけます。
農業としての畜産が鹿を育ててしまっているという側面があります。林業の場合は、人間の営みが生態系の一部として生物相を豊かにする歯車になっています。

生物多様性を高めるという事に対して、どのようなアプローチをしていますか?農業の分野では三圃式という循環型の概念が存在しますが…

菅野

木材は50年とか70年のサイクルで収穫するわけですがその結果、地力がどれだけ保てるかは分からないですよね。
今年も4ha天然生の広葉樹林を皆伐してカラマツを植えましたが、広葉樹林だったので地力があることは確かですが、カラマツ林として50年たつと土壌が酸性化しがちです。次の2代目のカラマツの成長は1代目より落ちると思います。

2代目の地力維持をどうするかというのが今後の課題だと思います。財団の土地は、260haとか100haのまとまりがあるので60で割って年間5haくらいを毎年伐採していけば、60年後には同じサイクルで始められます。0~60年生までの区画ができます。

色々な配置をして植林していく、60年計画を始めています。年代を追った人の配置も考えています。それをやることが、草原状態の森も成長した森もありといった、生物多様性を高める事に繋がると考えています。それが認められて、去年環境省から自然共生サイトとして認定されました。

自然共生サイトという観点から言うと、森を皆伐すると鹿が増えるというような事を理解しないと、正しい生物多様性の実現はできないと思います。

菅野

そうですよね。大学時代に古林研で鹿の食害問題で、どうして鹿が急激に増えるかを勉強させていただいたことが今に繋がっています。

60年計画のものの考え方ですが、地域全体や若い世代に伝えていく事が重要だと思いますが…

菅野

自分の経営もめどが立ってきたので、今年からエコツアーを事業化していく事に取り組んでいます。欧米の人達が、人間対自然という対立的なものの考え方をするのに対して、このような日本人の思想的な側面を感じられるツアーをやりたいと考えています。難しいとは思いますが…

若手を育てるという事では、地元の中学生を対象にしたほうが良いという考え方になってきています。収益はほとんどありませんので、ボランティアになってしまいます。そのため、観光庁や民間の助成金を頂くために申請をしています。


十勝「茂寄の森」エコツアーの試行風景

西欧の方は、自然は征服できるという考え方をしていると思います。それに比べて、アジアでは仏教的なものの考え方でしょうか、共生というものを受け入れやすい考え方があるような気がします。

菅野

日本は温帯モンスーン気候が特徴です。ある意味放っておいても森林は育ちます。
でも、夏から秋にかけて草との戦いです。山間地に住む以上、草取りをしないと快適な関係が維持できません。草を根絶やしにすることは出来ません。

宗教的に言うと、キリスト教もイスラム教も他の宗教の存在を認めようとしません。日本古来の八百万の神や仏教と違うところです。
ほっといても森が育つようなところでは、人の営みも自然の一部と感じられます。自然に対して謙虚になって、他人の違う考えも受け入れて仲良く暮らせるようになると思います。話し合えば何とかなるという考え方で人が育つと思います。

土と向き合うと自然に対する理解度が増して、人を育てますよね…

菅野

地力を次の世代に引き継いでいく事が重要だと考えています。今後の史春財団の課題でもあるので、土壌学の勉強に戻ろうかと考えています。
史春森林財団にも結果的に役員として農工大の卒業生が多くなっています。今のところ、理事、評議員など役員が実働部隊なので、彼らにも体を動かして財団の活動を支えてもらっています。そういった意味で、今でもともに学んでいるように思います。

Ⅴ:今後の展望

今後の史春森林財団をどのように運営していきたいですか?

菅野

私の頭の中に生態学的なテーマと、相続という側面から社会資本を次世代にどう渡していくかというテーマがあります。両方くっついたのが史春森林財団です。

一つの側面だけでは運営はできないと思います。

菅野

今、林野庁ではここまで考えている人は少ないように感じています。「林学科」がなくなってから入って来た方が多くなり、森林の「経営」という事を考えられる人が少ないからでしょうか?

私の住む稲城市では、急傾斜地の下の地域を危険地域として認定しました。市の説明会で、「稲城市民病院はその地域に入りますが、どの様な対策を取るのか?」と質問すると、「この法律はそこまで求めていません」という回答でした。市民の安全を考えていないと感じました。与えられた仕事をしているだけだなと…

菅野

トータルで物事を考えられる人材が必要だと思います。一定の思想のもと、専門だけに偏らない仕事が求められます。
史春森林財団を運営していく中で、そのような人材の発掘と育成ができると良いと思っています。

今、北海道での森林経営の大きな問題点は何ですか?

菅野

今北海道は、スキー場などの土地も含めてかなりチャイナに買い占められています。ホテルの経営を中国人がしていて、お客様も中国人だらけという状況になっています。

林業をしていても成り立たないので、中国人から土地を売ってくれといわれると売ってしまうという状況になっています。史春森林財団の運営を行う中で、微力でもそういった動きに歯止めとなりたいと考えています。

また、この国会で在留資格を改正する法案が通りました。その法案によると、今後5年以内に林産業で5,000人、林業分野に1,000人の移民労働者を入れることになります。

日常会話だけの日本語力で阿吽の呼吸が通じ合わない状態だと、チェーンソー作業や伐倒作業などの安全性は確保できないと思います。

昭和36年くらいから、日本は関税を撤廃して海外から輸入する木材で日本の需要を賄いました。

ここにきて、アメリカやヨーロッパの資源がなくなって、日本の戦後植えた木がちょうど育ってきたので、日本の木を使って儲けようという国際金融資本の動きが出てきているように感じます。

昨今の森林法の改正では、企業が国有林の樹木採取権を長期契約で利用できるようになりました。また、持ち主の分からなくなった土地を市町村が集めて、企業が利用できるようになりました。

その企業を通じて配当収益を得ようとする外資の存在があります。現在、育ってきた森林資源を、製材会社などを通じて、欧米資本が儲けの対象としている構図が見て取れます。

色々な問題があるのですね。もっとお話を聞きたいのですが、3時間を越えましたので、これでインタビューを終えたいと思います。
本日はお忙しい中、長時間に渡りありがとうございました。問題が山積する中ではありますが、事業目的の実現に向けて、今後とも頑張ってください。

菅野さんへのインタビューの感想
菅野さんのお話を聞いていて、多種多様な経験をする中で情熱をもって物事に取り組んでいる様子が感じられました。その活動を通じて多くの人と繋がることが出来て、とても幸せな人生を送っていらっしゃると思いました。
何事も情熱をもって取り組むことが重要ですね。あと遊び心も…林業に関する事だけではなく、湯谷温泉で薪窯ピザ屋を経営したこともあったりして、好奇心も旺盛な方だという事も分かります。
こうほう支援室池谷記