一般社団法人 東京農工大学同窓会

2025.1.14 かがやく同窓生

地球1個分の暮らしを目指す -学外での活動で農工大の良さに気付く-

同窓会交流ラウンジで以前、「農工大生大図鑑」の活動を紹介しました。
ご紹介した、上木さんが中心になって「若手同窓生の会」を立ち上げて、色々な活動を始めています。今回は、この「若手同窓生の会」メンバーの一人である鈴木さやかさん(地生R4)にスポットを当てました。

鈴木さんは、学生時代から国内だけでなく海外でも様々な経験をして、現在は愛知県田原市(渥美半島)に移住しています。
在学中に田原市に暮らす有機農家「渥美どろんこ村」でオーナーと出会い、その生き方・考え方に賛同して、「地球1個分の暮らし」(詳細は後述)の価値観を伝える活動をしています。

2024年5月下旬、電車とバスを乗り継いで「渥美どろんこ村」にお邪魔してインタビューさせて頂きました。

鈴木さやかさん

Ⅰ : はじめに

ご出身は?

鈴木

横浜です。農工大には実家から通っていました。通学経路は色々変えましたが、90分かけて自転車で通っていた時期もありました。

横浜はどの辺ですか?

鈴木

駅で言うと東横線の日吉駅です。新横浜に近い住宅地ですね。中学受験をして、中高と都内の学校に通っていました。

東大を目指していたようですが・・・

鈴木

そうですね、理科2類を受験しました。動物を守りたいという気持ちでずっといたので、それができる農学部を目指していました。

東大を目指していて、農工大に来てギャップを感じましたか?私は農工大っていいなと思いますが・・・

鈴木

今は農工大が大好きですが、東大を落ちた直後の落差はありました。農工大の学生はマイルドで穏やかで温かくて良い人たちだなと思います。
ただ自分はもっとやりたくて、がつがつしていたので、噛み合わない部分もありました。議論を投げかけても、「そうだね~」という感じで、それ以上進まない事が多かったです。
初めは、のんびりした感じが燃えている自分には合わないなと感じていました。2年になるくらいまでは「来る場所を間違えた・・・」というような感覚でした。
それもあって、大学ではなく学外に目が向くようになり、他の大学で部活をしたりしていました。

それは何ですか?

鈴木

ジャズ研です。高校の時からジャズをやっており、実家が慶応大学の近くだったので、慶応のジャズ研に入っていました。東大・早稲田・明治などのサークルとの交流も積極的にしていました。なるべく農工大生でいる時間を減らしているような感じでした。
でも、色々と経験しているうちに農工大の良さが分かるようになりました。

Ⅱ: 農工大大好き人間に

その状態から変化があったわけですよね?

鈴木

どろんこ村に初めて来たのが大学の2年生の時でした。ここのオーナーが「農工大生なんだね!」と、農工大生をエリートと思っているような感じで話をしてくれました。
その会話中、都会で育った私でも、農家さんと同じレベルで話すことが出来ました。大学で教えてもらったことが、農業の現場での会話に生きていると思った瞬間です。初めて農工大での学びが活かせているというのを感じました。

どろんこ村の入り口

農工大に来て良かったなと思えるようになって、そこから外での活動をしながら農工大の勉強も一生懸命やるようになりました。実習のチャンスも逃さないようにしました。

そもそも農学部を選んだのは、「動物好き」という事のようですが・・・

鈴木

原点は、生き物が好きというところです。地域生態システム学科はそういう人が多かったと思います。
子供の頃テレビの動物番組で、人間の都合で動物が困っているというのを見て、「なんでみんながおかしいと思わないのか」と憤りを感じていました。

私が学生の頃は、自然保護研究室が林学科の中にある時代でした。日光で鹿を野犬から守って保護するような研究がなされていました。今は、里山が崩壊したりする中で、熊や鹿の害が出るという現状が生まれています。

鈴木

動物との共存という視点が必要だと思います。地域生態システム学科では、野生動物の保護・管理という視点の授業が多くありました。

生態系としての保全を考えると、多くなりすぎるとバランスが崩れて良くないという事で、個体数の管理という考え方が出てきます。それは分かるのですが、自分とすると個々の動物が好きなので、増えすぎたから銃で撃って殺すという事については、それって本当にいいのかと思っていました。

自分なりに納得できる解を見つけることは出来ませんでした。そんなこともあり、野生動物や保全の方ではなくて、社会の変化や自然のことを知ってもらう「環境教育」に興味を持つようになりました。

どろんこ村の他に長野の方にも行っていたようですが、どちらが先ですか?

鈴木

どろんこ村での活動が先です。2年生のゴールデンウィークにこちらに来て、その後飯田の実習がありました。
飯田と言っても実習の場所は飯田市の最南端の方で、長野県と愛知県の県境に近いところでした。

実習はどのようなものでしたか?

鈴木

地域生態システム学科では、多くの実習が組まれていて、年に3回行く必要がありました。たまたまその中で選んだのが信州の飯田実習でした。

飯田市の遠山郷という限界集落で4,000人くらいの人が住んでいる地域でした。その実習で、いろいろな方の話を聞かせて頂きました。

その実習の時に、地域おこし協力隊として東京から移住した40代の女性にお会いしました。私は、その方に興味を持ちました。プログラマーとしてバリバリ働いていたのに、40過ぎの女性が縁もゆかりもないところに来て、どんな人なのだろうと思ったわけです。
その方は、遠山郷でゲストハウス(※)を開く準備をしていました。

※相部屋や共同利用できる風呂、キッチンなどの共有スペースを持った宿泊施設のことで、ホテルや旅館とは異なる「共有」と「交流」を楽しめる新しい宿の形として、外国人、日本人を問わず認知されている。

その方のお手伝いをしたのですか?

鈴木

2回目の実習の時に、少し先に現地に入ってリノベーションのお手伝いをすることを申し出たところ、快く受け入れてくれました。

飯田での活動はそれ以外にも広がりました。その後入ることになる朝岡研究室の先輩で、飯田市役所に就職が決まっている人がいました。その人が研究室の数人と飯田市に行くのに、一緒に連れて行ってくれることがありました。

その中に休学して地域活動をした先輩で、酒蔵で修行をしている人がいました。また、飯田で出会った方で早稲田大学を休学して猟師の免許を取って、そのまま飯田で猟師になった方がいました。
自分の中で、休学は海外留学とセットという概念がありましたが、休学して国内で何かやってもいいという事は、目から鱗でした。その人たちはとても生き生き、キラキラしていました。

その方たちといると、今までの都会の暮らしでは知ることの出来ない事を学べると感じていました。ゲストハウスのお手伝いをするために暇を見つけては飯田に通って地元の人達も含めて、面白い人たちと過ごすことが出来るようになりました。この時はまだゲストハウスは泊まれる状態ではなかったので、地元の若者が空き家を手直しして住んでいたシェアハウスに泊めてもらっていました。

それで、「このまま東京で窮屈な生活をしていていいのか」と思うようになりました。実習がきっかけでしたが、プライベートでも飯田へ来るようになってから、地元の方々との交流が深まりました。

農工大の先輩たちと共に、遠山郷のシェアハウスにて

初めは、どろんこ村よりも飯田の方への比重が大きかったように感じられますが・・・

鈴木

そうですね、初めは飯田の方に足を運ぶことが多かったです。
でも実は、どろんこ村の隣の市である豊橋は、飯田線の終着駅という地理的な繋がりもあり、遠山郷に行った帰りに飯田線で豊橋に下りてきて、その足でどろんこ村に来たりしていました。

2年生の時にそのような活動をして、3年生になって環境教育学研究室(朝岡研)に入りましたね・・・

鈴木
「環境教育」に興味が湧いていましたので、朝岡研究室を選びました。

朝岡幸彦先生はどのような事をやられている先生ですか?

鈴木

社会教育という分野ですね。地域社会とか地域の自治などがご専門の先生です。あとは食育や動物園教育など、どうにか皆に環境のことを知ってもらいたいという考えで、色々なことをなさっています。

先生は人との繋がりがすごくて、退官記念の講義には様々な方がいらして、飯田市の市長さんや明石市の市長さんなんかも来ていました。

学生時代にきちんと就活していなくても、最後は朝岡先生が何とかしてくれるかなという感じもどこかにあったりして、「どうにかならなくても、何とかなる」という考え方をさせてくれる先生でした。

論文はどのようなことを書きましたか?

鈴木

どろんこ村を長期にわたって調査したことをまとめました。1年間農村留学している子供を対象に、農的暮らしが子供の自主性にどう影響するのかというところを論じました。

消費型の都会の暮らしをしている子達が、農的暮らしをする中でどういう力をつけることが出来るのかをまとめました。子供へのインタビューをまとめたりして、社会科学的なアプローチですね。

Ⅲ: 海外での経験

海外にも目を向けていた様に思いますが・・・

鈴木

将来は国連に行って環境問題を解決したいとも考えていました。農工大の入学初日、オリエンテーションが終わってすぐに国際交流センターに足を運んで、留学したいと相談に行きました。

説明を受けましたが、当時農工大は欧米圏へのプログラムが無く、大学としては東南アジアへの提携校にしか行けないと言われました。私は留学と言えば欧米だと思っていたので、その時は「東南アジアなんて・・・」と思いました。「来る大学を間違えたな・・・」と最初に思った瞬間でしたね。

でも、最初に留学した先はフィリピンだと伺いましたが・・・

鈴木

欧米に行くには自費で行くしかないと思って、アルバイトを幾つか掛け持って費用を貯めました。まずは英語力をつけるため、イギリスの語学学校を検討しましたが値段が高く、フィリピンだったら1/5くらいの費用で行けることが分かりました。

沢山英語に触れることが目的だったので、フィリピンで2週間英語を学ぶことにしました。そこで出会った人たちが、私にとっての初めての東南アジアの人でした。彼らは楽観的で陽気で、他人と競い合ったり、攻撃したりするような人たちではありませんでした。居心地がよくて、凄く楽しかったです。

フィリピンに行くまではアジアの国に興味がありませんでした。でも、語学学校に来ている中国人や台湾人、韓国の子たちと話していると、お互いの国のことをよく知っていることに気づきました。例えば、違う国の有名なアーティストの話をしたりして、話が盛り上がっていました。

自分は世界で活躍したいと考えているのに、住んでいる東アジアのことを何も知らないという事に気づいて、欧米だけに目が向いていた自分が浅はかだと思うようになりました。

そこから東南アジアへの留学もいいかなと思うようになりました。そういった意味で、フィリピンでの経験は自分を変えてくれました。

自分もあちこちの国に行くと、自分が欧米目線で世界を見ていたことに気づかされます。多くの国に行くことは自分の視野を広げてくれると思います。

鈴木

大学4年間の一番の収穫は、自分が「井の中の蛙」だったことに気づけたことだと思います。

上流階級で自分のことを賢いと思いこんでいる集団の中にいたのが、東南アジアに行ってそれが勘違いだったと気づかされました。日本でも色々な地域に行くことで、色々な人がいて色々ななりわいがあることを知りました。

その後インドネシア留学したわけですが、留学期間はどのように過ごしましたか?

鈴木

大学3年生の後期に半年間、インドネシアのジャワ島にある大学に留学していました。農学部の学生として授業を受けました。「熱帯でどうやって効率良く作物を育てるか」というようなことを学びました。自分の専門とは少し内容は違っていました。

インドネシアには、オランウータンをはじめスマトラトラとかコモドドラゴンといった固有の生き物がいて、時間が空いたらそういう動物が見たいというのが本当の狙いでした。インドネシア国内を回って動物見学をしたりしました。

インドネシア留学時の画像

留学期間が終わってからも、インドネシアで活動をされたのですよね?ほかの国にも行けたと思うのですが、なぜインドネシアを選んだのですか?

鈴木

もともとはインドネシアの留学が終わったら、中南米・コスタリカに行きたいと思っていました。

野生動物の保全をしていくべきなのか、人と動物の共生をやるべきなのか、進むべき専門を決めきれずにいました。気持ち的には、共生という分野が良いのではと考えるようになっていました。

とはいっても、野生動物を守るというのは幼少期からの夢だったので、諦めがつかないでいました。
中南米のジャングルでレンジャーのような仕事をして、野生動物の保全の最前線で活動を一度経験し、その上で共存分野に進もうと考えていました。

しかしインドネシア留学中に、バリ島にある環境と社会に配慮したエコホテルがあることを知って調べてみたところ、自分の思い描いている世界を目指している団体だということが分かりました。心が動いて、1年の休学期間中にそこで働かせていただくことにしました。

どう生きてもいいですよね。自分は色々と職を変えたりしましたが、色々な人と出会うことが出来たし「何とかなる」という事と「人は心から信用しないほうが安全」という事を学びました。

Ⅲ: 卒業し渥美半島へ本格的に移住

学部卒業後はどうしたのですか?

鈴木

朝岡先生が研究の道を勧めてくれて、先生が東大の先生を紹介してくれて、東大に進学しました。半年研究して、その後辞めてここに来ることになりました。

そのことを朝岡先生に報告に行きましたが、「それはそれで良いと思う。」と言ってくれました。東大の先生にも相談をしましたが、同じように言ってくれました。

では、どろんこ村の話をもう少し詳しく聞かせてください。

鈴木

WWOOF(ウーフ)という制度があって、お金を介さずに旅人側は時間とか労働力とか経験とか知恵を提供し、受け入れる側は寝る場所と三食を提供するという、交換の仕組みです。

話が前後しますが、学部2年生の時に環境資源学科の同期と一緒にこのWWOOFに登録したのがきっかけで、最初に訪れたホストがこの「渥美どろんこ村」でした。ゴールデンウィーク、ちょうど田植えの時期でした。

作業そのものは、農学部でしたので目新しいことはありませんでした。メインは、夕方に畑から帰ってきて、オーナー夫婦とお酒を酌み交わしながら話す時間がすごくおもしろかったです。

オーナーは哲学者で、私が思っている農家のイメージとは全く違いました。ものの見方が多角的で、経済学や物理学を織り交ぜながら、「持続可能性とは何か?」を常に考えている人でした。話が合い、とても魅力を感じました。
それ以来、何度も来させていただくようになりました。

飯田での活動と時期的に重なっていますよね?

鈴木

飯田ではどろんこ村の話をして、どろんこ村では飯田での経験談(猟師の暮らしや若者のシェアハウスの話等)をするような感じでした。

飯田のゲストハウスの立ち上げやシェアハウスに滞在した経験が、自分にとっては視野を広げるきっかけになっていました。自分もそういう場所を作りたいと考えていました。自分もホストとして色々な人を受け入れる側になりたいと思うようになりました。

3年生になって、教科も専門的になってきて面白く同期の仲間たちからもそれぞれの興味関心に基づく鋭い質問や意見を聞くようになりました。

同期に対して、リスペクトする気持ちを強く持つようになりました。でも引っ込み思案なところは変わらずで、飯田のシェアハウスの話をして誘っても、来ることはありませんでした。

どろんこ村での活動にシフトしていった理由は?

鈴木

飯田という山の中ではなくて、もう少しアクセスのよい「どろんこ村」で、しかも農工大生がシェアハウスを開いているとなれば、引っ込み思案の農工大生でも来やすくなるのではと、思うようになりました。

「どろんこ村で空き家を利用してシェアハウスを作りたい」とどろんこ村のオーナーに話をしたら、賛同してくれました。

オーナーたちは小学生を対象に活動をしていましたが、これからはまさに社会を動かしている20代や学生に対象を広げたいと考えていたそうです。

それで、私は計画を立て、人を呼んで実行するところをやるという事になりました。どろんこ村の方で費用・社会的な信用・地域との繋がりなどに関するバックアップをしてくれることになりました。インドネシア留学に行く直前でしたが・・・

インドネシアから帰ってきたら一緒にこれをやろうと言ってくれました。帰ってくる頃にはコロナでバタバタしましたが、暫く隔離期間を取った後、ここ愛知にやってきました。

オーナーの方はなんでどろんこ村をやろうとしたのでしょうか?

鈴木

哲学者で、経済の仕組みとかエネルギーの収支とか考えるような人です。この地域が農薬や化学肥料をバンバン投じて生産物を作っていることに対して、おかしいと子供の頃から気づいていたそうです。地球の歴史を考えれば、人間のあるべき姿がはっきりしてくると言っています。

人類の歴史ロードの看板(どろんこ村内)

田舎なので、周りと同じことをするという風潮の中で、自分の信念を曲げずにやってきたそうです。

地球一個分の暮らしというのを掲げていますが・・・消費を減らすという事を言っているのでしょうか?

鈴木

人間が生活していることによる環境への負荷に対して、それを地球の自然環境が光合成などによって、無理なくプラマイゼロにできるキャパシティが存在します。

日本の今の暮らしを考えると、地球が2.5個分無ければプラマイゼロにすることが出来ません。アフリカの生活だと地球が0.5個あれば足りるそうです。

自身の暮らしの在り方が、世界中の人達の中で公平に、そして地球の将来に対して問題のない範囲でプラマイゼロになるような暮らし方を目指すという事です。必ずしも消費を減らすという事を言っているわけではありません。フードロスを見直したりすることもその考え方の一つだと思います。

食料安全保障の観点から言うと、できるだけ自国で食料を生産していくという考え方は必要だと思いますが・・・

鈴木

負荷のない農法というと、有機農法や自然農法という事が叫ばれますが、実際のところそれだけだと日本の食料は賄えません。

どろんこ村では、生産する農家と消費する生産者を分けるのをやめて、「生産者未満消費者以上」という考え方を取り入れています。少しでいいから、自分の食べるものを自分で作って、普段の暮らしの中で自分の食料自給率を高めるという活動をしています。

自分で生産すると輸送ロスが削減できますし、自分が生産をすることで食料を捨てなくなるとか、規格外の野菜も買えるようになるというような意識の変化も生まれます。

地球一個分の暮らしは理想だけれども、急には変えられないと思います。

鈴木

すぐ達成されるわけではありませんが、色々な方法でアプローチして目標を実現していく事が重要だと思います。我慢するという考え方ではなくて、現状を少しでも変えていこうとしています。

ここで大事にしているのはオプション(選択枝)という考え方です。目標は地球一個分の暮らしという事だけれども、選択枝はそれぞれが選んでいく事が重要だという事です。

肉を食べないという人がいますが、私はスーパーで肉を買って食べることもあります。一人一人が自分で考えて選んでいかなければならないと考えます。

どろんこ村では、日々の暮らしの中で解決していくにはどうしたらいいかを、生産者として考えて活動をしています。

今どろんこ村のメンバーは何人いるのですか?

鈴木

一人一人が自立していく事を目指していて、自分でやりたいことは自分でやるという事で、従業員はいません。

基本的には小笠原さんご夫婦と、農業研修生が一人います。あとは、旅人をしながら手伝うという人が入れ替わり立ち替わり短期でやってきます。

私は、シェアハウスの管理人と広報を手伝っています。私自身はフリーランスで、どろんこ村に所属しているわけではありません。

一人一人が自立していく事はとても重要だと思います。

鈴木

次世代を育てるという意識がとても強いと思います。ここにずっといて、ここから離れたら何にもできないというのでは困りますよね。
それぞれがやりたいことを軸に、経済的にも持続可能であることが必要だと思います。

農業で自立するってなかなか難しいと思います。

鈴木

どろんこ村の特徴は、半分生産事業で半分教育体験事業というところです。企業研修、大学のゼミ、小学校の授業などがかなりの部分を占めます。

小学生の教育体験事業

ここに来る若い人も、農業とそれに関係する高付加価値教育といった色々なカードを持っているので、現実的に疲弊しないで独立していけるケースが多いです。そういう研修ができる農家は少ないと思います。

鈴木さんが担当しているシェアハウスはどのような場所ですか?

鈴木

自給自足のシェアハウスというコンセプトで、家賃を払って住んでもらいます。共有の田んぼ、畑、鶏小屋が全部混みになっている料金です。

農業や自給自足、田舎暮らしを住みながら経験できる形になっています。日々のことは、皆でシェアしながらやっていきます。

シェアハウス
(農工大の同期や後輩が手伝いに来てくれました)

Ⅳ : 最後に

若手同窓生の会で上木康太郎さんと活動していますが、上木さんとの出会いは?

鈴木

上木さんは、2年先輩で有名人(笑い)
入学式の時から新入生の誰にでも声を掛けるような目立つ人でした。私は、農工大に興味が無かったので初めはほとんど関わることはありませんでした。

3年生になって農工大が好きになってくると、こんなに面白いことを色々考えているのに、行動に表れていない同期達を見て、「勿体ないな、農工大生!」と思うようになりました。

その頃、上木さんが農工ラジオを始めて、農工大の知名度を上げようと動き始めました。共感を覚えて、上木さんに直接「話がしたい」と申し込みました。

上木さんも話をしたかったみたいで、府中の居酒屋へ飲みに行き「農工大生勿体ないよね」というところで盛り上がりました。
それ以来、農工大生をエンパワーメントするような事をやっていきたいねと話しました。ロナ禍があって、上木さんを中心に学生でオープンキャンパスを運営したりもしました。

若手同窓生の会の活動はどのようなことをしていますか?

鈴木

上木さんと同期の赤石君と3人で定例ミーティングを組んで計画を練ったりしています。

社会人なので素早い対応はできないこともありますが、それぞれ連携を保ちながら、持続可能な運営を続けていけるよう工夫しています。

無理なくゆっくりとやっていいと思います。

鈴木

そうですね。

若い鈴木さんから、若い現役生に何かメーセージを頂きたいのですが・・・

鈴木

いつになっても「十分に知った」という事はないと思います。知らないことの方が多いと思います。

知らないことだらけの中で、色々なところに行って、色々な人に出会ってもらいたいと思います。いろいろな所に飛び込んでほしいと思います。

あとから気付きましたが、農工大はすごく価値のあることを教えてくれます。今目の前にある講義を大事にして欲しいです。

先日、農工大の学生が主催しているイベントのオープン講座に行ってきましたが、コロナの反動かアクティブになっているように思いました。学外で動いている人が増えてきたなと感じました。それを伸ばしてもらいたいし、期待しています。

本日はお忙しいところ、ありがとうございました。同窓会も鈴木さんのような同窓生の活動を支援できたらいいなと思いました。

鈴木さんへのインタビューの感想
一番感じた鈴木さんの印象は、自分に正直な方だなという事でした。経験を話す時にも、何も隠すことなく伝えてくれていると感じました。そういった意味で、その時その時の心境の変化について、とても説得力がありました。
周りの人の考え方や社会環境に対しても、素直に受け入れる力があると思いました。多くのことを経験されていて、「この若さでここまでのことが言えるの?」という感じでした。73歳の私だから鈴木さんの話が良く分かりますが、自分が20代の時に理解できたかどうかは分かりません。
渥美半島の農村で色々と経験を重ねると思いますが、ご自分の感性を信じて活動して欲しいと思いました。
こうほう支援室 池谷記