2025年9月1日発行「農工通信」の同窓生からの寄稿文に、「楽しく生きよう!」と題して、小林貞夫さん(植防S53)の記事が掲載されています。
小林さんは、58歳で一念発起してJICAシニアボランティアに応募して、コロンビア農業・畜産研究機構(Agrosavia)に派遣されました。60歳で派遣先に就職して仕事をこなしながら、本を出版されました。
Verduras y Frutas para Todos(みんなのための野菜と果物)という本です。また、2025年5月に『今日誰かに話したくなる野菜・果物学』をエクスナレッジ社から出版されました。
どのような方なのか興味を持って、「農工通信」担当の茶木に連絡を取ってもらいインタビューを申し込みました。2025年10月に帰国する予定があるということで、2025年10月29日にお会いすることが出来ました。
当日は、午前中都内の小学校で講演をなさった後、府中の同窓会事務室に来ていただきました。インタビューには茶木も加わって、とても興味深いお話を聞くことが出来ました。

小林貞夫さん
Ⅰ:はじめに
池谷-お生まれはどこですか?
小林
千葉県の習志野市です。高校まで習志野市で暮らしていました。
池谷-元々理科系が好きだったのですか?
小林
そうですね。子供の頃に、新聞の科学欄とかよく読んでいました。
小学校4年くらいの時に、試験管とかビーカーは家にありました。お小遣いで揃えました。
4年生の時に掛け算と九九ができないことが先生にばれて、怒られて居残りで勉強させられました。それで、いつまでもそんなことではいけないと思いましたし、みんなから馬鹿にされたので、少しずつ勉強するようになりました。
それまでは、家に帰ると、ランドセルを投げて遊びに行ってしまうような子供でした。
池谷-中学・高校で結構勉強したと思いますが、農学部を選んだ理由は何ですか?
小林
もともと植物ウイルスを研究したかったのです。
農工大学の森先生の植物ウイルスに関する文献を読んでいました。合格発表を見て、森先生にお会いするために、すぐに研究室に行きました。そうしたら、既に森先生は退官なさっていました。
その時、研究室には高坂先生がいらっしゃいました。入学手続きをする前に、研究室に来た学生は初めてだそうで、「お前は変わっている」と言われました。
茶木-高校生の時から植物ウイルスに興味があったのですか?
小林
そうです。
きっかけは、新聞の科学欄に植物ウイルスのことが掲載されていて、興味を持ちました。図書館で、植物ウイルス関連の本を読みました。
なんか興味があると、よく調べていました。今ならばネットで調べますが、当時は図書館に通って本で調べました。
茶木-ウイルスというと医学というイメージがありますが、なぜ植物ウイルスに結び付いたのでしょうか?
小林
はじめ、医学部を目指しましたので浪人してしまいました。もともと興味のあった植物ウイルスの方が感染する心配がなく研究しやすいと考えて農学部を目指しました。
池谷-どんな学生時代でしたか?
小林
一年生の時からアパートを借りて自活していました。入学金も自分で払いました。
予備校の時も、土方のアルバイトをして授業料に充てました。ありがたいことに両親は自由にやらせてくれました。自分が決めたらすべてその通りにやっていました。
大学時代に塾を始め、自分で教えるだけではなく、同級生や下級生に講師を頼んでいました。それで生活していました。
試験の前は、子どもたちを日曜日に呼んで無料で教えていました。
池谷-人に教えるって、相手の分からない事は何か理解しないとできませんよね。
小林
自分が小学校時代にできない子供だったので、その苦しみがよく分かっていました。今できなくてもいいから、明日から出来るようになろうと声をかけながら教えていました。
今日も講演で小学生に、「変えられないことはあきらめよう。例えば親は変えられないし、身長も変えられない。だけれども、学力は変えられる。」ということを伝えました。
池谷-サークル活動は何をしていましたか?
小林
ハンドボールをやっていました。途中から研究室に入り浸っていましたので、あまり長くやっていませんでした。
2年生の時にはみんなより早く植物病理の研究室に行っていました。
細川大二郎先生に、何か手伝うことはありませんかと聞いて、お手伝いして色々と教えてもらいました。
研究室の先輩には寺岡徹先生がいました。農工大を終えて大学院は東大でした。有江力先生は東大の同じ研究室の後輩でした。
池谷-東大での研究テーマは、農工大の時と同じでしたか?
小林
ウイルスの感染増殖ということをテーマにしていました。どのように細胞にはいって、どうやって増えていくかということについての研究です。
昔は遺伝子的な手法がなかったので、いろいろなことを自分で工夫してやりました。大学院生は、自分で考えなくてはいけませんよね。そこが、学部学生との違いだと思います。
大学院を受験するときには、専門科目は何とかなると思い、英語とドイツ語を徹底的に勉強しました。
試験が終わってから、卒論のための実験を本格的に始めましたが、研究室の先生はやきもきしたと思います。
Ⅱ:JICAシニアボランティアへの転身
池谷-東大修了後は、理化学研究所(注1)・日本モンサント(株)(注2)・日産化学(株)(注3)にお勤めされたようですね。日産化学では、営業もやったと聞いていますが…
小林
モンサントでは研究・開発部門の仕事をしていました。その後、農薬部門は日産化学に売却されました。
日産化学で研究部門に入れればよかったのですが、営業でした。やめようかとも思いましたが、当時は40歳を過ぎるとなかなか採用してくれないという現実もありました。それで、やれるだけ営業をがんばってみようと思いました。
(注1)1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う、日本国内では唯一の自然科学系総合研究所。
(注2)かつて存在した、アメリカの多国籍のバイオ化学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収・吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅している。
(注3)日本の化学メーカー。1887年(明治20年)4月、日本初の化学肥料製造会社として誕生
池谷-営業をやっていると、人が何を考えているか読めるようになりますよね。
小林
そうですね、人を観察することを学びました。それまでは、自分の事しか考えてきませんでした。営業では、どんなことを言ったら相手に響くかを考えなければなりません。言葉のキャッチボールをしながら相手を読まなければなりません。
池谷-日産化学をやめてJICAのシニアボランティアになって、コロンビアに行ったわけですよね。
小林
日産化学の最後の仕事は企画部門でした。企画は実験と同じで、いろいろとやって当たったら「良し」として、当たらなかったらその原因を探ります。
当たれば売り上げが増えますが、自分がやりたいこととは少し違うと思いました。
せっかく研究という分野を学んだので、最後は研究をやって人生を終わらせたいなと思いました。
池谷-58歳で決断したのはすごいと思います。
小林
「元気なうちに決断しないと」と思いました。
妻に相談したら、昔から「海外でボランティア活動をしたい」と話していましたので、すんなりと許してくれました。
コロンビアは英語が通じなくて、スペイン語でないと会話が成立しません。スペイン語の勉強をしましたが、修得するのはすごく大変でした。若ければ、もっと簡単だったと思います。
茶木-58歳からスペイン語を学んだのですね?
小林
そうです。58歳で会社を辞めて、1か月と2週間でJICAの訓練所で学びました。
シニアボランティアの人で、覚えられなくてお風呂で泣いている人がいました。会話ができないと、ボランティアの仕事ができませんし、安全に生活できないのです。
池谷-シニアボランティアって、全くのボランティアですか?
小林
JICAのボランティアは、渡航費と住居費を含めた生活費は出ます。
池谷-私は、昔JICAの草の根事業に関わっていましたが、その時指導員みたいな人がいましたが、給料は出ていたようです。
小林
シニアボランティアはもらえないですね。食料費とか居住費とかは出ますが、余ることはほとんどありません。
池谷-「ウズベキスタン草の根指導員」の方の部屋は、とても広いところでした。
小林
コロンビアでの住居は、安全上の問題もあって広くて安全な場所です。安全は、買わなくてはいけないということです。

ボゴタで最初に住んだアパート
池谷-ブラジルの草の根事業で、アマゾン川の河口近のベレンというところに行きましたが、住居が鉄条網の中にあるという感じでした。
小林
コロンビアも、鉄柵で仕切られ、まるで監獄の中に店があるようなところがあります。
そのような地域に住むことはできませんので、安全な所に住んでいますが、お金がかかります。また、一階や最上階に住むことは認められません。侵入される可能性があるからです。
昔ペルーで、JICAの専門家3人が銃殺されたことがあります。そういうこともありますので、常に緊張感をもって生活しています。
池谷-私も、ブラジルのベレンで市内をビデオカメラで撮影していたら、現地の人に「そんな高価なものを持っていると襲われる」と言われたことがあります。
小林
先程お話しした、寺岡先生と有江先生がコロンビアにいらしたことがあります。その時も、通行人から「カメラをしまえ」と言われていました。安全な日本とは、まったく違います。
池谷-コロンビアは自分で選びましたか?
小林
JICAで募集の中で植物病理という分野が少なく、なかなか見つかりませんでしたが、コロンビアの案件にありましたので、応募しました。
コロンビアで選んだのではなくて、職種で選びました。東大の先輩が偶然なことに前任者だったので、いろいろと情報をいただいて助かりました。
現地スタッフとも信頼関係が結ばれていて、結構助かっています。「コロンビアの人はいい人ばかり」という感想です。タクシーなんかはぼられることがありますがね。
池谷-タクシーは他の国でもぼられるとこが多いですよね。
小林
コロンビアだけではないですね。
Ⅲ:コロンビアの紹介
池谷-コロンビアでの仕事のお話しを聞く前に、コロンビアについて教えてください。茶木さん質問はありますか?
茶木-コロンビアとの時差はどれくらいですか?
小林
日本より14時間遅いです。日本に来るときはいいのですが、コロンビアに行くときは時差ボケがけっこう大変です。
有江先生が、Agrosaviaの研究所を歩いているときに、ガクッっとなりました。心配しましたが、「歩きながら寝ちゃった」と言っていました。
茶木-日本に来るまでのフライト時間はどれくらいですか?
小林
大体24時間くらいです。ヒューストン経由が経済的ですが、トランジットの時間が必要なので、24時間くらい時間がかかります。
茶木-コロンビアには多くの日本の方がお住まいですか?
小林
そんなに多くはないですが、日本人・日系人全体で2千人ちょっとです。
日本人は優秀で良い人だと思われています。初めて行ったときから、好印象で迎えられて助かっています。
8月に飛行機で1時間ほどのカリ市で日系人の運動会があって参加しました。その時、いろいろと昔話を聞きました。
多くの人は、高校を卒業してコロンビアに来ていました。お金もなく、苦しい生活だったけれども、肉体労働者として真面目に仕事をして信用されて、だんだん重要な仕事に変わって、給料も多くなったそうです。
食べるものは豊富ではなかったけれど、節約して子供の教育に使ったそうです。今ではその子どもたちは、博士や弁護士など様々な分野でも活躍しています。
池谷-ブラジルへの移民は100年以上の歴史がありますが、コロンビアはどのくらいの歴史がありますか?
小林
結構昔から移民はあって、100年近くの歴史があります。少し前に、「移民80年史」というのが出ていました。
池谷-ブラジルでは、ジャングルのようなところに日本人のコミュニティーを作って、開拓をしていましたが、日本人はすごいですよね。
小林
与えられた土地で実直に頑張って、それなりの財を成しています。
コロンビアでは、日系人はなんと家の中でもスペイン語を話していますので、若い人は、日本語をあまり話せません。孫の代は、親が教えない限り日本語は話せません。中国系や韓国系の人たちは、家の中では母国語を使っています。
コロンビア人に、「なぜそうなのか?」と聞かれたことがありますが、日本人は「郷に入れば郷に従え」という考え方で、地元の人たちをリスペクトしているからだと答えました。それで納得してくれました。ペルーでも同様に家族内でスペイン語を使い、二世でも日本語が怪しいです。
池谷-文化面でもコロンビア風になってしまっていますか?
小林
日系人は運動会をやったりして、絆は深めていますがやはりコロンビア風になっています。特に、食事は材料が限られてコロンビア風になっています。
池谷-ブラジルはたくさんの人が入植したこともありますが、今の日本人より日本人的だなと思うところがあります。
小林
学生の時、来日した日系ブラジル人の先生に「はばかりはどこだ」と言われたことがあります。みんなは分かりませんでしたが、私はなぜか分かりました。
先生は「はばかり」という古い言葉を使い、しかも男尊女卑の考え方もお持ちの明治の方の様でした。
池谷-JICAのブラジル案件を扱った時、日系二世の人に手伝ってもらいましたが、日本の学生さんよりも日本的な感じがして、我々の考え方に近いと感じました。
小林
親が昔のままの教育をしていたのだと思います。親が時間厳守という教育をするとそうなります。それに、人を敬うという精神が染みついていると思います。
茶木-コロンビアというとフェルナンド・ポテロ(注4)が有名ですが、ボテロ美術館はどのような感じですか?
小林
とても良い所なので、日本人が来ると必ず案内します。
かなり優れた画家で、細かな洋服の質感とか、陰影もよく描けていると思います。なんでも、太って真ん丸に描きますが、本当に素晴らしい画家だと思います。
(注4)コロンビアの著名な画家・彫刻家。最もコロンビア人らしい芸術家”と呼ばれる。

ボテロ美術館
茶木-ボテロは自身の作品に加えて、個人的に収集してきた美術品も数多く寄贈し、それをもとに美術館を作ったのですよね。映画にもなっていて観ました。
小林
アメリカなどでは、個人の所蔵品が美術館に寄付される場合がけっこうあります。コロンビアにも、そういった例があるということですね。
池谷-キリスト教的な文化面として、寄附の文化がありますよね。
小林
日本では、そういった側面が薄いような気がします。
茶木-コロンビアの文化面で日本に取り入れたいと思うようなことはありますか?
小林
いっぱいあります。
まず、家族の関係が濃厚です。会議をしていると、よく家族から電話がかかってきます。日本では考えられませんよね。恋人とは、一日何回も電話をしています。
これは一長一短ありますが、皆が幸せを感じています。ある調査で、幸せと感じる人の割合が、コロンビアは世界で一番だったそうです。
週末には、一族が集まってお昼を食べたりするので、皆の状況が把握できています。それで職のない人がいたら助け合っています。
日本では、家族でもなかなか集まりませんよね。
茶木-大家族なのですか?
小林
昔はそうでした。
茶木-今は核家族となっていても、コンタクトを取り合っているということですか?
小林
そうです。クリスマスの前の9日間毎日「ノベナ」(注5)という行事が有って、4~5時間かかるところから週末集まってくることもあります。
人と人の距離が短くて、ハグもムギュッという感じです。今回も、日本に戻るときに、見送りでムギュッとされ、耳元で「日本を楽しんで、元気に帰って来てね」と囁かれました。個人的には今でも苦手です。
(注5)17世紀にキリスト教で始まった信心業。神が恵みを与えてくれるように願ったり、聖母や聖人など、特定の崇敬対象に対して、神への執り成しをしてくれるよう願う。9日間に渡り、連続して行われる。
池谷-コロンビアの人たちは、国を出たいという気持ちを持っていますか?
小林
あります。アメリカやヨーロッパに親戚がいっぱいいて、旅行すると親戚の家に一週間くらい泊まることもあるようです。
そういった環境で、若い人もコロンビアでは職があまりないこともあり海外志向があると思います。
貧富の差がものすごくあって、貧しい人は公立の学校にしか行けません。そういった学校では、今でも三部制だったりします。3回生徒が入れ替わり、朝6時から学校が始まって、終わるのが夜の9時という感じです。
お金のある人は、私立の学校に行きます。私立では、小学校の頃から二か国語を学びます。大体は英語とフランス語です。結構会話ができるくらいの語学力はついています。
将来、国外に出るということを視野に入れているということですね。お金のある人は、そのような選択もできるわけで、ますます貧富の差が広がってしまいそうです。
池谷-教育水準はどうですか?
小林
貧富の差以外に、種族の問題があります。例えばインデアンの識字率は悪いです。部族ごとに言葉が違っていて、その部族の言葉が分かる先生がいないということでした。ちなみに100を超す部族があります。
茶木-部族ごとに文字が違うのですか?
小林
部族に文字がなかったりします。子供は家では部族の言葉を使っていますので、学校では、スペイン語の会話が成立しないのです。先生の養成は難しい問題だそうです。
池谷-コロンビアはどのような気候ですか?
小林
赤道に近いので、季節がないです。日本と違って、植物を見て季節を感じるということはありませんね。
日本は夏の日照時間が長くて、夜に気温が十分下がらないうち朝になってしまいます。コロンビアでは一年中昼の時間はほぼ12時間なので、夏の日中に気温が高くても夜の時間が長いので、朝はけっこう涼しいです。ジャングルでも半袖でいると寒いくらいです。
池谷-季節がなくて、日本に戻りたいと思うことはありませんか?
小林
季節がないので、桃の花と実が同時に見られたりします。美味しい桃はできませんが不思議でおもしろいですね。
コロンビアの生活は刺激的で日々新たな発見もあり、戻りたいと思うことはあまりありません。
5,000m級の高地もあり、標高に応じて作物は何でも作ることが出来ます。それがメリットです。コロンビア人はそのことにあまり気が付いていませんね。
池谷-ボゴタはどのようなところですか?
小林
人口が多くて、横浜市と大阪市を合わせたくらいの人が住んでいます。
ボゴタは、仕事がなくて大変です。ベネズエラ難民が流入してきて、仕事がさらになくなって、治安もまた悪化しています。インフレ率も高いです。経済がめちゃくちゃですね。みんな海外に行きたがるわけです。
池谷-初めてボゴタに着いた時に、どのような印象を持ちましたか?
小林
結構都会だなと思いました。空港からホテルまでの道は良かったのですが、翌日散歩したら、表側はビルだけれども裏は配線が外にむき出しになっていました。

モンセラーテの丘から見たボゴタ市内
Ⅳ:シニアボランティアの活動
池谷-シニアボランティアで何か指導するということですか?
小林
研究所ですので、研究方法・試験設計を指導しています。
池谷-実験とかもするのですか?
小林
職場は、日本の農水の研究所と同じような感じです。そこで、植物ウイルスの研究をしています。
池谷-トマトとかジャガイモは、もともと南米産ですよね。有江先生もトマトの病気を研究していましたよね。
小林
有江先生は、トマトのカビの病気の研究をなさっていました。
自分は、ウイルスの研究です。とても小さいので電子顕微鏡でないと見ることが出来ません。研究所には電子顕微鏡がないので、必要な時は大学のを借りています。結構大きな研究所ですので、他の設備はほとんどそろっています。国内に13か所の支所があって、博士だけで466人います。作業員も含めると何万人にもなります。
池谷-博士であるかどうかは、海外では大きな差ですよね?
小林
博士は尊敬され、給料も違います。そこで、職場のやる気のある若い研究者には修士入学のための推薦状を書いています。ぜひ博士号を取って研究者として育ってもらいたいですね。残念ながら日本では、博士を取ってもあまりメリットがありませんよね。
池谷-コロンビアは農業生産に力を注いでいるということですね?
小林
農業生産物はコロンビアの重要な輸出品ですので、農業生産には力を注いでいると思います。
池谷-研究を続けながら、Verdurasy Frutaspara Todos (みんなのための野菜と果物)という本を作られましたが、ご苦労はありましたか?
小林
はじめ、こんな本を作りたいといった時に、「いいね!いいね!」と言ってみんな賛同してくれました。それで編集委員会を開催しようとして会議を設定しましたが、定時になっても誰も来ませんでした。
彼らにとっては完成するかわからない余分な仕事ですよね。しょうがないので、目次やぺージ見本を作ったら、人が集まるようになりました。
最後までやってくれたのは、2人だけでした。仕事が大変だと逃げてしまった人が多かったです。
池谷-小林さんの熱意がなければ、その2人もついてこなかったと思います。
小林
通常の仕事をしながら、野菜と果物を育てて観察、写真撮影のため旅行もしました。本には、子どもでもできる実験の章もあります。
途中で去った人達も出来上がったら、「こんないい本ができるのだったら最後までやりたかった」と言っていましたが「?」と思いました。
茶木-作るのにどれくらいかかりましたか?
小林
10年ほどかかりました。今、コロンビアで活動し出してから14年たっていますので、比較的早い段階で取り組み始めました。
池谷-一緒にやってくれた方は、コロンビアの方でしたか?
小林
一人はコロンビアの修士で、もう一人は日系人の博士でした。
茶木-初めから全部のイメージができていて、それに沿って作っていったのですか?
小林
始めの計画より取り扱う野菜・果物が増えました。
向こうの人はあまり野菜を食べないので、どうしたら野菜を食べるようになるかも考えて作りました。冷凍にするといった提案もしています。
茶木-肉食がほとんどなのですか?
小林
肉が多いですね。
茶木-この本『今日誰かに話したくなる野菜・果物学』の絵、素敵ですよね。
小林
ありがとうございます。娘が書いてくれました。
小さい頃から娘とよく散歩をしていて、よく植物の名前を聞かれました。それに、家に植物の本がいっぱいありましたので、植物には興味が湧いたようです。
本を作る過程で、私の文章が英文翻訳みたいで日本語的におかしいと、夜遅くまで添削をしてくれました。
また、私が書いた文章も一般の人が理解しやすいようにしてくれました。とても、感謝しています。
実はスペイン語のVerduras y Frutas para Todos(みんなのための野菜と果物)に、挿絵を描いたばかりでなく、植物を育て写真を200枚以上撮り、実験もしてくれました。ですので、共著者になっています。
池谷-この本は、育種的な記述が多いですね。
小林
病理的な本を書いても、一般の人は面白くないと思います。そこで、育種的な視点を前面に出しました。

小林さんの著書
池谷-北海道の大きいキャベツの話が掲載されていましたが、北海道という寒い地域で大きいキャベツが栽培されているのは、何か理由がありますか?
小林
北海道は寒いので、冬場に貯蔵をした場合、大きなキャベツであれば外側が凍っても、中の部分を利用することが出来ます。
そんな理由で、北海道に大きなキャベツが導入されたと思います。導入された後も、選抜を繰り返して育種が行われています。日本の育種はすごいと思います。
池谷-植物が会話するというのも面白いと思いました。ある植物が虫に食べられると匂いを出して、隣の植物がそれを感じるということですが…
小林
それも最近の研究で分かったことです。新しいことが発表されると、どんどん興味が湧いて沢山のことを学びました。
育種という人間の活動もすごいと思いますが、植物のそういった力もすごいと思います。
池谷-この本の中に柳下先生の話が出ていましたが、その当時日高先生もいらっしゃって、生物の先生には著名な方がいらっしゃいましたよね。
小林
特に日高先生とのやりとりが印象的でした。レポートを出すと、それを読んで必ずコメントをくれていました。なぜそのように考えたのか、先生に問われました。
池谷-私が農工大を受験した時、生物の入試問題で、ある動物の特徴を列挙して「この動物の高さは1mをこえるのか?」というのがあって「判断の理由も述べよ」という追加設問もありました。思考過程を判断するような問題でした。生物の先生は少し変わっていましたよね。
小林
日高先生は、とても多くの文献を読んでいらっしゃいました。語学も堪能で、憧れました。
Ⅳ:最後に
池谷-本日は、お忙しい中取材に対応させていただきありがとうございました。最後に、後輩や若い人に一言いただければと思います。
小林
農工大学の学生は優秀だと思います。ただ、もっと押しがあったらと思います。小さく固まっている人が多く勿体ないと思います。これでいいやと思っている人が多いのではと思います。
害虫学の分野の大物はいますが、病理の大物があまりいません。他の分野でもっとユニークな人間が出てきてほしいと思います。
池谷-昨日も学生さんにインタビューしましたが、農工大の学生さんは対外的なイベントのお誘いをしても乗ってこないということを言っていました。新しいことに興味をあまり示さないようです。
小林
いい人が多いとは思います。他人にこうしたら良いと積極的に言う人が少ないと思います。
池谷-今まで交流ラウンジでインタビューした人は、いろいろな事に積極的に取り組んでいて、そういった意味で農工大生としては変わっていると思います。
でも、そういった人の記事を読んで、いろいろなきっかけにしてくれるといいなと考えています。
小林
私の記事を読んで、会いに来てくれると嬉しいですね。
茶木-50歳を過ぎて新しいことに挑戦なさっていて、素晴らしいと思いました。
小林
そうですね、60過ぎてから海外の研究所で職員として採用されて、3か国語で授業するようになるとは夢にも思っていませんでした。生きていてよかったなと思っています。
茶木-まだしばらくコロンビアで活動しますか。
小林
他にやりたい事もありますので、もう少しでコロンビアの活動は止めようと思っています。
今度は日本です。親がいない人や、親が育児放棄した人がいます。そういった人が、大学に行けるような活動をしたいと考えています。勉強を教えたりして、自立できるようにしてあげたいと考えています。
茶木-今日は小学校で講演なさったそうですが、どちらの小学校でしたか?
小林
荒川区の小学校です。日本に来たときは、出来るだけ講演をしてコロンビアを紹介しようと思っています。
茶木-お忙しい中、本日は取材に応じていただきありがとうございました。
小林さんへのインタビューの感想
先ず感じたのは、「真面目に人生を生きている方だな」ということです。
自分で目標を定めて、愚直に努力してその目標を達成していらっしゃいます。また、目標達成後も、新たな目標に向かって前進しようとなさっています。同じ農工大出身者として、誇りに思いました。
若い方々が、この記事を読んで小林さんに興味を持ってくださるといいなと思っています。『今日誰かに話したくなる野菜・果物学』も面白い本なので、興味があればぜひ読んでみてください。
多くの同窓生・在学生・教職員の方々にインタビューしてきましたが、誰一人として同じような人生ではなく、特徴ある生き方をしていました。ただ、共通して言えることは、「みな愚直に生きている」ということです。農工大生に共通している側面ですね。
こうほう支援室 池谷記



